「エホバの証人としての人生、そして私が辞めたわけ」(匿名)
48年間活発に奉仕していた主婦がエホバの証人を辞める

Active Witness Mom Quits Jehovah's Witnesses after 48 years of Service "My Life as a Witness and Why I Left",(anonymouse) Free Minds Journal. http://www.freeminds.org/stories/ssalg.htm

(2002年4月22日掲載・2003年7月6日改訂)

人はさまざまな理由からグループに入ったり、出たりするものです。私たちのような他のグループのことを全く知らなかった人間が、このグループを離れるというのはまれなことだと思います。私たち夫婦はともにエホバの証人の3世で、子供たちすべてをエホバの証人として育てましたが、ここ4年で私たちの近親者はすべてエホバの証人を辞めました。

私は証人であった頃多くのことを学びました。多くの国籍の異なる人々と親睦を深め、様々な人と心を通わすことができました。逆境に立ち向かう勇気を身につけ、どんな状況下でも話せるようになりました。私は積極的に戸別訪問に参加し、一カ月に平均して25-30時間を費やす活発な伝道者として48年間歩んできました。聖書を愛するようになり、誠実に神に仕えてきました。人々に愛を示し、もてなしの精神を持っていました。また社交性にも富んでいました。私たちの家で社交的な集まりやパーティーを数多く催し、プロに負けないほど多くの結婚式を企画しました。楽しい生活を送っており、何も変えるつもりはありませんでした。人生を楽しむためにエホバの証人を辞めなければならないなんて考えもしませんでしたし、数年前まで自分はとても従順だと思っていました。

私はある思いを長い間抑えていました。それは何かする人より何もしない人のほうが立派なエホバの証人とみなされているという認識です。過去もそして現在でも、証人は大学に進学することや、家を購入すること、結婚すること、子供をもうけること、地域活動に参加することを勧められてはいません。私の「友達」はすべてエホバの証人でしたし、身内も全員エホバの証人でしたので、世間から非常に隔離された生活を送っていました。しかし私はその箱の中で幸せでした。

母親として子供を愛していましたので、彼らが成長するに従って、教えられることはすべて教え、またできる限り多くの技能を習得させたいと考えていました。私たちの子供には長年にわたって水泳とピアノのレッスンを受けさせました。これは例外的なことだと思います。なぜなら私の知る限り、他にピアノを習っていたエホバの証人の子供は二人しかいませんでしたから。組織は放課後のスポーツ活動を禁じていましたが、私たちは子供たちをいろいろなところに連れて行き、スキーを習わせたりもしました。彼らは運動が得意で概してすばらしい人生を送っています。私は非常に組織だった行動をとるようにもなりました。会衆での多くの活動や、集会、奉仕で、また夫は26年間長老でしたので家を空けることが多かったこともあり、私はとても多忙な日々を送っていましたが幸せでした。命じられた通りに行動し、たとえ教義や規則に理解できない点があっても、それを表に出すようなことはしませんでした。

エホバの証人の教えで私が承服できなかった最大の点は、大学教育に関してでした。私は大学への進学をあきらめましたが、この競争の激しい世界で生きていく上で、専門的な能力が必要であると強く感じていました。長女が地元のコミュニティーカレッジに進学したとき、彼女と関係を絶つ人が出てきました。当時彼女は二人と研究し、ものみの塔の組織に導いていたのに。息子は大学に進学したとき完全に断絶されました。このような雰囲気は上から、つまり統治体からもたらされるものですが、彼らはそれが一般証人の間からわき上がってくるものであり、自分たちは神が用いておられる不完全な人間にすぎないという印象を私たちに与えようとしていました。

この著しく権威主義的で管理された集団内で、必ずしもすべての人間が傷ついているわけではありません。私や家族の誰かが批判されるようなことがあっても、私は自分自身や家族に「人の言うことなんて気にすることないわ。ただ正しいと思うことをしなさい。みんな不完全なんだから、心配しなくていいのよ」といつも言い聞かせていました。私たちは誠実に他の人も当然しているであろう「正しいこと」をしようと努めていました。振り返ってみて私が今感じるのは、私が融通の利く人間であったのに対し、上に立つ人々はそうではなかったということです。全体としてこの組織は15年前よりもはるかにかたくなで、支配的、そして権威主義的になっています。

私は長老が無慈悲であったり、お粗末な助言を与えたり、柔軟性を欠いた人を傷つけるような規則をつくったりする場面を幾度となく目にしました。ベテルで働いている長老が、自ら同じ問題を抱えているにも関わらず、飲酒に関する問題を抱えている他の人たち、たいていは立場の弱い若い人々を排斥したのを知っています。私はたいへん子供好きなので、彼らともっと心を通わすよう努めるべきだと強く感じています。決して「邪悪」なわけではない、多感で悩みを抱えた若者と交わりを絶ったり、排斥したりするべきではありません。

私たち家族は「ハルマゲドンが1975年に来る」という考えが盛り上がり、そしてそれが偽りであったことが明らかになっても組織から離れることはありませんでした。そう教えられている時でさえ私も夫も信じてはいませんでしたが、その雰囲気に飲み込まれていました。しかし統治体(この組織を動かしている少数の老人)が何らかの「特別な知識」を持ち、1914年を見た世代がハルマゲドンの来る前の最後の世代、つまりこの世代 にあたるということを「知っている」と何度も教えられ、そう信じていました。四世代にわたって(私の祖父母から私の成人した子供に至るまで)終わりは「目前に迫って」いました。

1995年11月1日号の『ものみの塔』で「世代」の解釈に変更が加えられたとき、私は感情を爆発させましたが、その気持ちは夫以外には伝えませんでした。六カ月の間、末の子は何度も自殺を図りました!そのとき私は聖書とものみの塔の出版物だけを使って、本当にすべてを調べました。家族でカウンセリングも受けました。エホバの証人に反するものは一切読みませんでしたし、組織を離れるよう説得するような人と話すようなこともありませんでした。それは自分で決めるべきことでした。それでも奉仕や集会に一度参加しなかっただけで、避けられるようになりました。私たちが1年半前に参加しなくなってから三人の女性と(私たちが招いた)二組の夫婦しか私たちを訪ねてくることはありませんでした。「背教者」の烙印を押され、そして完全に関係を絶たれたことはとてもショックでした。何年にもわたって忠実に仕えてきたのに、だれも私たちに手を差し伸べてはくれませんでした。私は巡回監督や長老にエホバの証人の教えに関していくつかの質問をしましたが、答えようとはしませんでした。協会は今まで私たちを幾度となく欺いてきました。しかしそんなことより、私たち家族全員が思いやりのない扱いを受け、即座に関係を絶たれたことにショックを受けました。

私たちはもうエホバの証人ではありません。王国会館に行くのを辞めるのは非常につらいことでした。みんなのことを友人や家族だと思っていたのに。私は何年にもわたって伝道中にサタンの影響を受けていると何度も言われました。今もエホバの証人の「友人」二人から悪魔的であると言われています。偶然エホバの証人に会うと、私は「おかしくなった、死にそうだ、体も弱っている、正気を取り戻せば群れに復帰するだろう」と言われます。彼らのことは全く気にとめていません。私たちは元の小さなそして幸せな家族に戻ったのです。慣れるまでの間つらい日々が続きました。今も多少そうですが、以前よりももっと幸せで、現実的です。末の子も今は元気になって、大学に通っています。

私がエホバの証人を辞めることになった要因

  1. 私は本を読むのが大好きですが、私はエホバの証人に批判的なものを目にしたり耳にしたことはありませんでしたし、そうしようとも思いませんでした。それは禁止されていて、私は従順でしたから。私はエホバの証人として育てられましたので、大学に進学することは許されませんでした。しかし自分の子供にはできる限り多くのことを学ぶよう励ましました。家族を養うにはさらなる教育が必要であると考えていましたので、どういった教育を受けるかは子供たちに自由に決めさせました。
  2. 私は見下すような扱いは受けたくありません。フェアに接してもらうのが好きです。私たちが辞めてから三人の女性が私を訪ねてきました。私が以前の「友人」に電話をかけると、けんもほろろでした。留守電にメッセージを残すと、彼女の夫が電話してきて「何が望みだ?」と言われました。
  3. 何年にもわたって欺かれてきたことをはっきりと悟ったとき、組織から出ることにしました。1975年が宣伝された時代を生き、また「協会」が不誠実であることを知りました。彼らが1995年に「世代」の解釈を変更したとき、私の心は激しくかき乱されました。私の知る限り、その記事のことを話題にする人はいませんでしたが、私にとっては協会が行った最大の変更でした。何年にもわたって教義や規則に変更が加えられてきましたが、私は協会が言うことすべてに「従う」よう慣らされていました。
  4. 私の息子が自殺を図ったとき、地元のすべての長老たちが、そして協会もそれを知っていたのに、何の助けも与えようとはしませんでした。息子は教えられてきたことを心から信じ、実践していました。私たちはなぜ王国会館で多くの人が息子を避けるのか理解できませんでしたが、だれも理由を教えてくれませんでした。その後息子は一時的な喫煙を理由に即座に排斥されました。
  5. 私のエホバの証人の友人には鬱病でプローザック等の抗鬱剤を服用している人が本当にたくさんいました。私も変わらなければ(離れなければ)彼らと同じようになるだろうと感じていました。
  6. 私は輸血や兵役に関する問題を注意深く研究しました。私は協会が世間の評判を気にして方針を変更しているんだと思います。集団が小さければ、良い評判しかたちませんが、組織が巨大になり莫大な資産を手にすると、それを保護し、敵意に満ちた政府や地域からの「迫害」を避ける必要に迫られます。協会は個々人を気遣うことはありません。人数と統制にしか興味がないのです。
  7. 私は自分自身で決定を下すことができないということにうんざりして辞めました。自分が尊敬できないような独裁的集団に支配されることが嫌になったのです。半世紀が過ぎ、もう大人にならなければならないと思いました。

エホバの証人をしていたころ私がどう感じていたかは、次のような短い話で説明することができます。私は子供の、「リーダーに従え」ゲームを延々とやっていたような気がします。このゲームで大冒険が始まります。リーダーの後について曲がりくねった道を進み、輪を飛び抜け、そして岩を上ります。他の子供と遊ぶのは楽しいものです。とげとげのやぶやどろどろのぬかるみを抜けて進みます。岩を上るときに転んだり、切り傷を負ったりする子がいます。列の後ろにいる子が小声で尋ねます。「ぼくらをどこに連れていくの?怪我してる子もいるんだよ!」すると前の子に頭を殴られます。リーダーは怒鳴ります。「ボクはおまえらより賢いんだぞ。行き先は分かってる。ゲームを続けるんだ。付いて来い」。ついに小さな子はリーダーも自分と同じ、ただの子供だということに気づきます。怪我をするのが嫌になり、ゲームももう楽しくありません。そして一人で遊ぶか他の子を探して一緒に遊ぶことにします。「リーダーに従え」ゲームをやめると意地悪な子が叫びます。「もう一緒に遊んでやらないぞ。おまえなんて友達じゃない」。

私は協会がこのところ行ってきた変更によって、全く別の集団に生まれ変わるのではないかと思います。おそらく大多数の「忠実」な証人は気づきもしないでしょう。私は記念式の出席数が1998年に前年から42万6千人減少したことに気づきました。目を覚ました人が決して少なくないということでしょう。この集団は「霊的パラダイス」であると宣伝していますが、多くの人にとって霊的強制収容所と化しています。

私は元エホバの証人にアドバイスしたいと思います。「思いやりを持ち、そして礼儀正しくありなさい!どんなときでも!」と。

排斥されたり、家族や友人に断絶されても、常に彼らに話し掛けなさい。親や友達に電話をしなさい。彼らが返事の電話や手紙を送ること、あるいは話し掛けることを拒否し続けるなら、彼らは神のみ前で不親切であったことの責任を取らなければならないでしょう。あなたの方から踏み出して、一緒にいて安心できる人を求めるなら、喜んで親切にしてくれる人は世の中にもっとたくさんいます。

敬具
匿名


  1. ママがついた嘘
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