彼らが神に対して熱心なことは確かです。しかしそれは、正確な知識に基づくものではありません。彼らは神の義を知らず、自分の義を確立しようとして神の義に服さなかったからです。−ローマ10:2, 3

前書き

 ものみの塔とは、ものみやぐら、すなわち「見張り台」のことである。その上に立って、全地の見張り役を務めていると称しているのが統治体である。
 彼らの場合、見張りの業がいやになって眠り込んでしまうということはない。役目に関しては病的な程に熱心である。問題なのは、霊的睡魔に襲われることではなく、ひどい『幻覚症状』を起こしていることである。いくら熱心であっても、幻覚を見るようになれば、見張りとしてはもう『終わり』である。
なぜ統治体が幻覚を見るようになったのか(初めからそうだったのかもしれないが)、この理由ははっきりしている。『致命傷』になったのは次の三つである。

  1. 不純な動機、組織のエゴイズム、組織バアルの崇拝
  2. 組織論の間違い
  3. 1914年、その他の預言の解釈の間違い、特に黙示録の間違いが致命的

 将来を展望する霊的視力は、真理に対する純粋な愛を失い、預言に対する真摯な研究を止めてしまえば、すぐになくなってしまうものである。ものみの塔協会の幹部にとっては、真理は単なる宣伝、預言は組織のポリシー、人集めの手段にすぎない。組織バアルは彼らの動機を汚染させ、組織論と1914年の教義は預言の解釈を間違いだらけにしている。しかも、彼らにはあからさまにそれを指摘されても、改めようとする姿勢は全くないのである。
 見張りは不治の病に侵され、いやしの道はすでに閉ざされた。天の法廷の霊的判決はすでに下ったと判断してよい。
 今回、ものみの塔(見張り)の『終焉』を宣言するに至ったのは、こうした理由による。
 統治体が見ているものは、白昼夢か幻想にすぎない。彼らは見たいものしか見えなくなっているのである。それにつき合うか、つき合わないかは、エホバの証人各自の自由であるが、統治体がもはや人々をパラダイスにも、永遠の命にも導くことができないのは否定しようのない事実である。
 さて、ものみの塔協会の行きつ戻りつ、その場しのぎ、トカゲのしっぽ切り、右往左往、猫の目の教理はよく指摘されることである。しかし、エホバの証人は、そうしたことはすべて、光の組織の証拠、箴言4章18節「義なる者の歩む道はますます明るくなって行く」の成就であると教えられている。
 彼らは心からそう信じているので、
「部分的だって間違いは間違いじゃありませんか。間違ったことを教えていたのなら、真理の組織とはいえないでしょう。」
と迫ってみても、それほど大きな影響はない。
「そんなことはありません。人間は不完全ですから誰でもみな間違いを犯します。それを改めるかどうかによって、真理の組織か否かがわかるのです。かつては不十分な情報で全体像を描こうとしたために、不正確なことを教えてしまったかもしれませんが、それは、むしろ熱心さの証拠です。ものみの塔協会は、間違った『部分』を捨て、正しい『全体』を描くよう努力してきたのですから、確かに真理の組織といえます。」
という組織の弁明を、少しも疑わずに受け入れてしまうのである。
 だから、ものみの塔協会が捨ててしまった古い見解を扱ってもたいした意味はない。私たちは新しい人が教えられている最新の教理を正面から取り上げることにした。
 各章はそれぞれ独立した構成になっている。順序に特別な意味はないので、どの章から読んでいただいてもさしつかえはない。
 出版に先だって、何度かものみの塔協会に質問を試みてみたが、相変わらず返答は全くなかった。よほど都合が悪いのであろう。組織は全面的に逃げ腰である。
 この本で取り上げた論議は、ものみの塔協会が今まで扱ったことのないものが大部分である。組織が公けに説明していない以上、まともに答えることのできるエホバの証人はいないはずである。苦しくなると、ごまかそうとするかもしれないが、それを許さずに質問してゆくなら、最後には返答に窮してしまうだろう。 もし、エホバの証人と話し合う機会があれば、是非次のように勧めてみてほしい。
「あなたが答えられなくても、それは仕方のないことです。ものみの塔協会がはっきり説明していない以上、あなた個人ではどうしようもないでしょう。無理をしないで組織に尋ねてみたらどうですか。あなたの信じているように、ものみの塔協会が真理の組織、唯一の神の組織だというなら、必ず教えてくれるはずです。もし、まともな答えが何もないとしたら、神の組織というのは偽りでしょう。あなたもそれによってものみの塔協会の本当の正体がわかるはずです。」
 本物のエホバの証人であれば、この提案を断ることはできないはずである。
 というのは、彼らは「盲信は絶対によくありません。信じるにはそれなりの根拠が必要です。真の信仰には明白な論証が伴います(ヘブライ11:1)。すべてのことを納得の行くまで確かめて、それから受け入れるべきです(テサロニケ第一5:21)。」と人々に教えてきたからである。

 預言の解釈と教理が崩壊してしまうことは、極めて大きな意味を持つ。その宗教にとっては、『終焉』を意味するからである。ものみの塔協会の幹部が悔い改めることはもはやあり得ない。
 ものみの塔の『終焉』は時間の問題であろう。

 「この民は口先ではわたしを敬うが、その心は遠く離れている。彼らの崇拝は無駄である。単なる人間の教えを教理として教えているからだ。」 マタイ15章8, 9節