反抗的な人々をも、温和な態度で諭すことが必要です。神が悔い改めと真理を授けてくださるかもしれないからです。-IIテモテ2章25節

1章 義認

(1) 義認とは

 義認と救いには綿密な関係がある。神によって義認されない人が救われるということはない。神の祝福や恵みを経験するためには、まず神に義認される必要がある。
 なぜ人は義認されねばならないのか、どのようにして義認されるのか、こうした問題について詳細な論議を展開しているのはローマ人への手紙であるが、使徒パウロはその中の一節でこの教えの根幹について次のように述べている。

 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:23,24 新共同訳)

 人類は父祖アダム以来、神の義の規準に達しないという意味で罪の下に置かれている。それゆえ自らの業や業績によって神の義の宣言を獲得できる人は誰もいない。しかし感謝すべきことに、イエス・キリストの贖いによって義とされることが可能となった。
 この義認の教義はクリスチャンの信仰の本質に関わるものである。特に組織との関係では非常に重要な位置を占めている。キリスト教の土台とも言えるこの教えは、義認、宣義、成義、義化、称義などの呼び方で一般的に知られている。これらの用語にはそれぞれ神学上の細かいニュアンスの相違はあるが、簡単に言えば神に義とみなされるということなので、とりあえずここでは義認としておく。
 実際に義とされるのかそれとも単に義とみなされるだけなのか、信仰だけで義認されるのかそれとも業が必要なのか、一回の義認だけでよいのか、あるいは絶えず義化されねばならないのか、神学上はいろいろと論議がなされているようであるが、要は視点の問題、焦点の当て方であろうと思う。
 本当に信仰が純粋で清いものであれば口先だけということは有り得ない。正しい信仰にはとうぜん業が伴う。一方、ことばだけの偽善的な信仰であれば、その業は死んだものとなる。その種の信仰が義認されることは絶対にない。また義のレベルを様々な段階に分けて考えれば、成義も義認も義化もほとんど変わりがなくなる。
 加えて歴史上の揺るがぬ証拠がある。実際に義とされるという義化の教義を唱えた人々も、単に義とみなされるに過ぎないという義認の教理を教えた人々も、実際に行ってきたことはほとんど変わりがないのである。現実の行いのレベルでは義認も義化も大差はない。神がもし義認の教理の微細な相違を本当に重要なものとみなしたとすれば、事態はもっと異なっていたものになっていたに違いない。今日までのキリスト教の歩み、その実体は、細かいニュアンスの相違など指導者たちが主張するほどには重要ではないということを物語っている。
 真に重要なのは、どの用語を用いるかということよりも、現実の義認の証しの方であろう。産出的なレベルにおける義認の印がなければ、キリストの贖いもそれによってもたらされるという義認も、しょせんは非現実的なお話しに過ぎなくなってしまう。贖いの実質を忘れ、ささいな教理の違いで争うなど愚の骨頂である。それこそ義認されていない証拠になろう。ある組織、ある教団がいかに自分たちだけが義認されているといっても、その実質がなければ単なる自己宣伝、大いなる錯覚でしかない。

《義認の証し》

 本当に神によって義と宣言されるならば、いったい何が与えられるのであろうか、神はどのように義認の証しをしてくださるのであろうか。ローマ5章1節はその点について次のように述べている。

 「それゆえ、わたしたちは信仰の結果義と宣せられたのですから、わたしたちの主イエス・キリストを通して神との平和を楽しもうではありませんか。」(新世界訳)

 この神との平和は独善的な妄想でもなければ、ミーハー的な信仰の持ち主たちがしばしば感情的に語る、小ワールドの狭い平和でもない。これは、ピリピ4章7節で述べられているような「あらゆる考え、理解、知恵に勝る、あるいはそれらを超える平和」である。様々な反対論や異論に対しても容易には動揺しないものである。強力な情報統制を敷き、象牙の塔に閉じこもって得られるようなものでは決してない。「私は平安だ、私は平安なのだ」と繰り返し自己暗示をかける必要もない。この種の平安は穏やかな確信に満ちたものである。
 さらに神との平和は聖霊が豊かに与えられる土台となる。聖霊のダイナミックな活動は、神の保護、恵み、理解、知恵、いやしなどをもたらす。神から義認された人は、神との平和な関係から得られるこのような様々な祝福を楽しめることになっている。また、義認は大艱難、ハルマゲドンなどの神の裁きにおける救いをも意味している。神の糾弾が地に臨むとき、義認されない人は生き残ることができない。加えて最終的には、神の義認は永遠の命をもたらすものとなる。  しかし、やっかいな問題が一つある。義認されているのかそれともそうではないのかを証明する現実の証拠、誰もが明らかに認めうるような決定的な証拠がないということである。
 キリストが再臨してはっきり分けてしまえば、これはもう絶対である。そうなれば不明な点はもはや何もなくなるが、まだそのようなことは生じていない。大艱難もまだ起きてないし、永遠の命を与えられた人も一人もいない。この面から義認の証しを確かめることは現時点では不可能である。
 では、霊的裁きの方はどうかといえば、これは霊的視力が優れていれば、はっきりしているが、客観的な判定にはかなりの時間がかかるという性質のものである。アナニヤやサッピラの例(使徒5:1-11)もあるが、このような速やかな裁きはきわめて稀である。ほとんどは神がいるのかいないのか、わからないようなケースが多い。結果が出るには時に何十年、あるいは何百年もかかる場合がある。例えば、アダムは「あなたは塵から作られたので塵に帰る」という判決を受けたが、現実に死ぬのはこの宣言から約900年の後である。その影響、変化はデジタル的というよりもアナログ式に近い。義認の霊的レベルでの表れは瞬時には容易に見分けがつかない。早い機会に見抜くには、かなりの霊的な識別力、洞察力が必要である。
 しかしそれでも、神の判決は確実であり絶対である。すべての人の目に明らかになるには時間がかかっても、必ずそれなりの結果は生じるからである。

(2) 組織の義認-ものみの塔協会の最大の問題点

 神の文字通りの裁きが始まり、義認されない人が皆滅ぼされてしまうのであれば、義認の結果は誰の目にも明らかになる。しかし、現在の義認というのはあくまでも霊的な性質のものであって、一見するとすぐわかるというようなものではない。ここに、第三者の入り込む余地が出てくる。ものみの塔協会に見られるように、組織のごまかしやすり替えが神の義認を押し退けてしまう事態が生じ得るのである。

《神の義認か組織の義認か》

 円熟の仮面をつけた厚顔な偽善者は「私たちは義認されています。聖霊の豊かな祝福を楽しんでいます」というポーズをとるのが非常に巧みである。こういう人々には神の霊的な裁きは全く通用しない。預言者イザヤの次の描写は、偽善的な宗教指導者にピッタリである。

 「主は燃える怒りを注ぎ出し激しい戦いを挑まれた。その炎に囲まれても、悟る者はなく火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。」(イザヤ42:25 新共同訳)

 偽善者はその厚いマスクで、神の霊的な糾弾の炎をみなはね返してしまう。彼らが心の奥底で評価しているのは、神との平和な関係から得られる霊的な富ではない。本当に望んでいるのは、もっと即物的なものである。そういうわけで偽善者は、神の霊的な裁きに対しては無感覚になってしまうのである。このような人々は神の義認を人や組織の義認に置き換えても、ほとんど良心の呵責を感じることがない。いや、むしろ、それこそが彼らのねらいとするところであろう。
 もちろん教義上は確かに神の義認になっている。ところが実際はいつのまにか組織の義認に、そして組織の代表者の義認にすり替わってしまう。義認の本来の教えからすれば、義認とは神と人との関係の問題であって、人間対人間、人間対組織の問題ではないはずなのだが、神の裁きが霊的なものであることをいいことにして、組織が義認の実権を握ってしまうのである。
 神の義認かそれとも組織の義認か、例外的な状況を別にすれば、ものみの塔協会の場合は文句なく組織の義認である。

《組織の義認のからくり》

 神の義認を組織の義認にすり替えてしまう・・・・このからくりのカギは、「忠実で思慮深い奴隷級」「統治体」の教理とものみの塔協会の関係にある。
 忠実で思慮深い奴隷級とは、キリストが再臨する時すべての財産をゆだねる人々のことである。ものみの塔協会の教義ではその代表が統治体ということになっている。したがって、エホバの証人にとっては統治体こそがキリストの是認を得た唯一の管理機関になる。その統治体の用いる法人団体がものみの塔協会ということになっている。
 通称「組織の本」の28ページには、この組織上の流れについて次のように記されている。

 「組織内のすべての人は神の神権的な管理の仕方を認めます。諸会衆は、すべての人の益のために組織上の取り決めを定める統治体の導きを受け入れ、それに従います。彼らは、支部、地域区、巡回区、会衆などを監督するために年長者たちに対してなされる任命を受け入れます。」(支部、地域区、巡回区、会衆はものみの塔協会の管轄下におかれている)
 神権的な管理の頂点に位置するのが統治体、統治体はものみの塔協会を通して全地のエホバの証人を導くと述べられてはいるが、しかし、どうも実際は逆ではないかという気がする。現在は別としても歴史的な背景からすると、忠実で思慮深い奴隷級、統治体、ものみの塔協会という流れではなくて、その反対、つまり、ものみの塔協会、統治体、忠実で思慮深い奴隷級という流れではないかと。
 最初にC・T・ラッセルがものみの塔協会を設立した。そして組織の拡大に伴って、やがて協会の幹部たちが自らの聖書的根拠を確立しようとして考え出したのが、思慮深い奴隷級及び統治体の教理ではないかと思われるのである。
 事実、ものみの塔協会の初代会長、C・T・ラッセルの時代は彼が忠実で思慮深い奴隷であると考えられていた。奴隷は一人ではなく奴隷級、その数は14万4千人、その代表が統治体というのは、ラッセルの死後かなりの年月を経て確立された教理である。
 この点は、ものみの塔協会の定款にもよく表れている。1972年3月15日号のものみの塔誌(p.184)、「法人団体と異なる統治体」という記事の欄外には、問題のその定款が載せられている。
 以下にその一部を引用する。
 「当協会の目的は次のとおりである。すなわち、エホバの証人として知られるクリスチャンの団体のしもべおよびその世界的な合法的管理機関として働くこと。キリスト・イエスの治める神の王国の福音を全能の神エホバの名前とことばと至上権に対する証しとして諸国民すべてに宣べ伝えること。聖書を印刷し、頒布し、キリスト・イエスの治めるエホバの王国の樹立に関する聖書の真理と預言を説明する情報および注解を収めた文書を作成、出版することにより、各種の言語で聖書の真理を流布すること。世界のあらゆる場所に出かけて行き、喜んで耳を傾ける人々に前述の文書を配布し、それら文書に基づいて聖書研究を司会し、公に、また家から家に聖書の真理を宣べ伝え、かつ教える代理行為者・しもべ・要員・教師・教官・福音伝道者・宣教者・奉仕者を認可し、任命すること。」(下線は発行者)

 この定款がすべてを物語っている。明記されている通り、実際は最初からものみの塔協会がすべてを管理し(実質は支配)、組織内の役職の設定、任命権のすべてを牛耳っていたのである。
 権力の頂点に位置するのは、ものみの塔協会の会長、副会長、理事などの幹部である。
 会衆に立てられる長老や監督たちの任命は、ものみの塔協会のサインひとつで有効にも無効にもなる。巡回監督や地域監督は、ものみの塔協会に睨まれたらもう終わりである。現実には人事権のすべてを握っているのは聖霊ではなくものみの塔協会である。信者にとっては信仰上の生命に関わる排斥(除名)でさえ、ものみの塔協会のスタンプひとつでどうにでも決まってしまうのである。エホバの証人の中では、ものみの塔協会の義認、サイン、スタンプさえあれば、何でも通ってしまうのが実情である。
 ものみの塔誌は「協会の定款によれば、法人団体としての当協会はエホバの証人の用いる”単なる管理機関”にすぎません」と述べているが、これは全くの言葉の”トリック”にすぎない。すべての実権を握っていながら”単なる管理機関”はない。現実にはまさしく”支配機関”そのものである。
 ものみの塔協会を用いるエホバの証人とはいったい誰であろうか。それは、ものみの塔協会の幹部に他ならない。加えて、意図的かどうかはわからないが、管理の定義が全くなされていないわけだから、すぐに「管理機関」ならぬ「支配機関」になってしまうのは目に見えている。事実は正直である。現在のものみの塔協会の実態が何よりもそれを雄弁に物語っている。  義認の教理に関するものみの塔協会の誤りは、一言でいえば「神の義認」を「組織の義認」にすり替えてしまったことである。組織の義認は、キリスト教の崇拝の本質、「霊と真理による崇拝」を根底から覆してしまう。
 これは何も今になって初めて指摘されることではない。勇気を持ってその危惧を表明した心ある人々は組織内にもいたのである。ところが、ものみの塔協会は頑なにも全く耳を貸そうとはしなかった。そうしてついには組織崇拝、組織バアルと呼べる段階まで来てしまったのである。彼らに自覚がないということは有りえない。はっきりと指摘されているのだから、統治体を始めとする幹部はいやでも意識しているはずである。わかっていながら、なおかつ少しも改めようとはしない。それどころか逆に、組織支配を強化しようとしている。この偽善者的な頑なさこそが彼らの最大の問題点であろう。

(3) 神の義認に道を譲る

 ものみの塔協会の過ちを繰り返さないためには、「神の義認、天の義認」を全面に出す必要がある。組織の義認(カリスマ的な指導者の場合は人間による義認、超理念的な宗教の場合は教義のみによる義認)の弊害を防ぐには、こうした体質を持つ教団ができるだけあいまいにしようとしてきた部分を、末端の成員にもはっきり理解できるように可能な限り明確にして行かなければならないと思う。

《天の義認の位置付け》

 ものみの塔協会の場合は基本的には「天の義認」を教えながら、すべてがあやふやでハッキリしていない。何が天の義認なのか、制度的に天の義認をどう位置付けるのか、天の義認を奪おうとする企てはどのようにして防ぐのか、明確な規定は何もない。
 だから大多数のエホバの証人は、たくさんの人を組織に導いたり、多くの雑誌を配布したり、組織内の役職についたりすることが、神の祝福、すなわち義認のしるしでもあるかのように考えている。そういう面が全くないとはいわないが、神の義認の本質とは必ずしも一致しない。義認の一つの表れには成り得ても義認そのものではない。そういう錯覚を錯覚と感じなくなると、何十人もの人をキリスト教の教えに導きながら、あるいは組織内で顕著な立場にありながら、平気でウソをつく、偽証を犯すというような人が出てくるわけである。
 こうした問題を最小限に押えるには、天の義認を第一に据える必要がある。そして、理想的にはできればすべての人が「その意味」を理解しているべきである。一人でも多くの成員が「天の義認の意味するところ」を認識していれば、神の義認を奪おうとする企ては未然に防げるはずである。ものみの塔協会では、むろんそういう教育は全くなされていない。むしろ、幹部は、もちろん彼らの偽善が見抜かれては困るからであるが、その種の教育には敵対している。そうであれば、宣伝では天の義認といいながらも、結局は全部、組織の義認になってしまうのも止むを得ないであろう。
 組織の好みや都合に合わなければ、すぐに異端だ、背教だと騒ぐような組織は、非常にレベルの低い組織である。ある意味では極めて幼いともいえる。神の組織というのであれば最低でも、天の義認に道を譲るだけのゆとりを持つようでなければならないであろう。そのようなゆとりを持って、なおかつ有効に問題に対処するためには、天の義認の領域を可能な限り明瞭にすること、天が義認するかどうかを見る時間的な余裕を設定すること、成員のすべてが天の義認をしっかりと理解する教育システムが必要になる。
 このようにするだけでもかなりの程度、宗教上のつまらない争いや偏狭で排他的な態度を防ぐことができるはずである。天の義認の判定を待つ間、どうすれば平和裏に共存、住み分けができるかを工夫する程度にはなれるに違いない。