Ⅳ. ものみの塔協会は神の組織ではない(5)

「証拠3」 教義の誤り

(3)天に行く人は14万4千人だけではない

「14万4千人に関するものみの塔協会の教え」
  1. 天に行く人の総数は14万4千人である。
  2. 14万4千人は1世紀から約1900年以上の歳月をかけて全人類の中から選ばれてきた。
「エホバの証人に指摘できる点」
  1. 天に行くことを表明したクリスチャンの数は、14万4千人よりあまりにも多すぎる。
  2. 14万4千人以外の人々をすべて退けるのは神とキリストの属性にあわない。
  3. 14万4千人の現代の代表であるという統治体には、偽善を止めない限り天へ行く資格はない。

「解説」

ものみの塔協会は、キリストの千年王国で共同支配者になるのが14万4千人、そのほかのクリスチャンは地上の臣民になると教えている。

この説の根拠とされているのは以下の聖句(すべて新世界訳)である。

「それでわたしは、ちょうどわたしの父がわたしと契約を結ばれたように、あなた方と王国のための契約を結び、あなた方がわたしの王国でわたしの食卓について食べたり飲んだりし、また座についてイスラエルの十二部族を裁くようにします。」(ルカ22:29,30)  「恐れることはありません、小さな群れよ。あなた方の父は、あなた方に王国を与えることをよしとされたからです。」(ルカ12:32)
「あなたはほふられ、自分の血をもって、あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取ったからです。そして、彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし、彼らは地に対し王として支配するのです。」(黙示録5:9,10)
「またわたしが見ると、見よ、子羊がシオンの山に立っており、彼と共に、十四万四千人の者が、彼の名と彼の父の名をその額に書かれて[立っていた]。
 これらは、神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られたのである。」(黙示録14:1,4)

キリストの追随者の中には王国の支配者となって裁きを行う人々がいる。彼らが天に行く目的は王また祭司として地球を支配することである。彼らは「小さな群れ」と呼ばれているので、限られた少数の人々であることがわかる。シオンはかつてダビデの行政府が置かれていたところである。天のシオンにキリストと共にいるのは14万4千人と述べられている。したがって、天に行く人の数は14万4千人と考えることができるのである。

《天に行くことを表明した人々》

もし「ものみの塔協会」のこの教理が正しいとすると、キリストが伝道を開始した西暦1世紀から現在までの間に天に行くことを許された人の数は、わずか14万4千人しかいないということになる。言い換えれば、1900年以上もの間に神の是認を受けた真のクリスチャンは、たったの14万4千人しかいなかったということになってしまうのである。

果たして本当にそうであろうか。キリストが「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マタイ22:14)と語ったのは事実である。しかし、例えそうであったとしても、ものみの塔協会の教理は神の神性とも歴史の事実とも全く調和しない。天に行くことを表明した人々はあまりにも多い。その数は14万4千人より圧倒的に多いのである。14万4千人以外はみな天から締め出されてしまうというのは、どう考えても愛と憐れみに富まれる神の属性とは一致しない。

1世紀当時から現代に至るまでのクリスチャン総人口を厳密に知ることはできないが、聖書の記述と一般の歴史的文献にある程度の目安を見ることができる。以下はその資料である。

「1世紀当時」
使徒 1:15 キリスト昇天の日に120人の弟子たちが集まっていた
使徒 2:41 五旬節の日に3000人がバプテスマを受けた
使徒 4:4 男の数だけで5000人が信じた
使徒 6:7 エルサレムで信者が非常に増える
使徒 9:31 ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地で増える
使徒 9:35 ルダとシャロンに住む人はみな主に立ち返った
使徒 9:42 ヨッパで多くの人々が主を信じた
使徒 10:44 コルネリオと共にいたすべての人に聖霊が下った
使徒 11:19,21 フェニキヤ、キプロス、アンテオケの大勢の人が主に立ち返った
使徒 11:24 アンテオケの大勢の人が主へと導かれた
使徒 13:48 ピシデアのアンテオキアの異邦人も信仰に入った
使徒 14:1 イコニオムでユダヤ人、ギリシャ人の大勢の人が信仰に入った
使徒 14:21 デルベでかなり多くの人を弟子とした
使徒 16:33 テアテラで看守とその家の者全部がバプテスマを受けた
使徒 21:20 ユダヤ人の中で信仰に入っている者は幾万となくいる
コロサイ 1:6 福音は世界中で実を結んでいる

キリスト教がローマ社会に広まっていった結果、ユダヤ人よりも異邦人の信者の方が問題にならないくらい多くなった。ユダヤ人だけで幾万人もの信者がいたわけだから、全部のクリスチャンの数は少なく見積もっても1世紀だけで10万人をはるかに越える人数になる。AD70年のエルサレム滅亡前の段階で、すでに14万4千人を越える状況であったと考えられるのである。

キリスト教は大いに拡大していった。1世紀末にはすでに次のような状況になっていた。

第1世紀末ローマに反キリスト教的指令の発布されたとき、クレメンスの手紙によれば、宮廷に属する者からも迫害に遭った人があり、政府軍人の階級もその対象とされたらしい。ドミティアヌス帝の姻戚さえ「無神論者」の疑いを帰せられて迫害・追放を受けた者があった。トラヤヌスやマルクス・アウレリウスのごとき平和的治世の下においてさえ、イグナティオスやポリュカルポスやユスティノス等の殉教記録が残っているのは、キリスト教普及の反証と見られる。小プリニウスがビティニア州総督に赴任したとき、その地方民の大多数が「無秩序な迷信」に惑わされているのに驚き、いかに処置すべきかという方針について、トラヤヌス帝に報告しかつ指示を仰いだ往復文書が残されている。キリスト教分布の程度は地方により同じくないが、ローマの統治官をかように当惑させた地方もあったのである。(「キリスト教の源流」石原謙著 p.80)

1世紀の末には下層階級の人々ばかりではなく、ローマの宮廷の中にもキリスト教が浸透していた。地方によっては住民の大多数がクリスチャンというところもあったのである。

「2世紀以降のローマ時代」

「世界の歴史5 ローマ帝国とキリスト教」より

「キリスト教徒は実に数が多くて、都市ばかりでなく農村にも、さらに草深い田舎にも広がってい(た)」(p.345)
 「二世紀の末、『護教論』を書いたテルトゥリアヌスのころ、迫害の強化にもかかわらず、信徒の増大と組織の強化は着々とすすめられていた。その勢いを抑えるために201年に出された法律は、ユダヤ教とキリスト教への改宗を極刑をもって禁ずるものだった」(p.380)

「キリスト教史1」半田元夫・今野國雄著より

三百年代になると、エウゼビオスが「キリストの祭壇は今やすべての村々や町々にみられる」という状況になっている。…
 小アジアでもフリュギアのはるか北の地方で発見されたおびただしい碑文は、帝室領の田舎の人々が公然とキリスト教の信仰を表明していたことを示しており、墓碑銘に好んで描かれている鋤、鎌は、彼らの出自が農民であることを語っている。( p.167)

この時代になると、もはやクリスチャンの数は数十万人どころではない。ローマ帝国の隅々までキリスト教は普及していたのである。

次の図はその状況を示したものである。

大迫害前夜のキリスト教分布図 map 50KB
「ローマ後から現代まで」

マタイ13章に記されている「小麦と毒麦(雑草)のたとえ話」にあるように、あらゆる時代に真のクリスチャンはいたはずである。もちろん正確な人数はわからないとしても、約1400年余に及ぶ期間であることを考えると、その数は決して少なくないはずである。

「ものみの塔協会の公表した人数」

エホバの証人は一年に一回主の記念式を開く。その時パンを食べ、ぶどう酒を飲む人が天へ行く人々で、何も食べない人が地上での永遠の命をめざす人々である。

象徴物にあずかった人数
1899年3月26日 2,501人 (不完全な報告)
1917年4月 5日 21,274人  
1919年4月13日 17,961人 (不完全な報告)
1925年4月 8日 90,434人 (これは出席者数であるがこの当時は地的な希望を持つ人は記念式に招待されなかった)
1939年世界の伝道者数 71,509人 (他の羊が集められはじめたばかりなので大多数は天的クラス)

ものみの塔協会は

「そうした集める業が過去18世紀余なされた後の、この二十世紀の時代までには、代わりとして用いられねばならない人々は比較的少数、あるいはごく少数しかいないはずです」(ものみの塔誌1975年2月15日号 p.120)

と指摘している。

少数といいながら、ピーク時には何と「9万人」を記録しているのである。

この矛盾に対する答えとして、ものみの塔協会は「天へ行く人には非常に高い規準が求められる、不滅の命を与えられるため絶対に不忠節にならないことが要求される、ゆえに選ばれる人は14万4千人しかいないのである」と教えてきた。

しかし、この点も今や完全に否定された。レベルの高い人々の代表であるはずの統治体が、偽善者の集団であったからである。聖書の原則を擁護しない人々をキリストが共同統治者に選ぶことなど絶対にありえない。

彼らが組織崇拝というバアル崇拝を止め、偽善と偽りを正して、組織を神の名にふさわしい状態にするよう努力しない限り、天に召されるという彼らの希望は空しいものに終わるであろう。