4章 天に行く人の数は14万4千人か

(1) 天に行く人=14万4千人説の根拠

 天に行く人の数が14万4千人に限定されるという教えは、ものみの塔協会の大きな特徴の一つである。他にこのような教理を唱導している教団については聞いたことがない。すべての組織を調べたわけではないのでもちろん断定的なことはいえないが、これはものみの塔協会独特の教理ではないかと思う。
 天に行く人が14万4千人に限られるということは、天への救いに与る者は14万4千人しかいないということである。そのほかの人は皆、地上における救いに入れられることになっている。ものみの塔協会では、天的クラスの14万4千人はファーストクラス、あとの地的クラスの人はセカンドクラスのようなものである。
 天の方が良いかそれとも地上の方が良いかは人によって異なると思うが、いずれにしてもこれは、クリスチャンとしての救いそのものに関わる重要な問題である。

《神の計画と小さな群れ》

 なぜ天に行く人は14万4千人に限定されるのか、なぜ14万4千は象徴的な数字ではなく、文字通りの数といえるのか、黙示録のイスラエルはどうして文字通りのイスラエルではなく霊的イスラエルと断定できるのか、こうした問いに明白な論拠をもって答えることのできるエホバの証人は極めて少ない。
 というのは例によって、新しい人のためのテキストには主に結論が記されているだけで、理由らしいものはほとんど扱われていないからである。それでも一応納得した気分になれるのは、部分的な論証はなされているからであろう。「永遠に生きる」や「真理」の本には、部分と全体を結びつけることのできる論議は記されていない。
 この教えの論拠になっているのは「地球や人類に対する神の目的とその中で小さな群れが占めている役割」である。この教理は神の計画と密接に関わっており、それを抜きにして論じることはできない。天に行く人の数が制限されるのは小さな群れが天に行く目的による。
 神の目的は創世記1章27,28節に次のように記されている。

  「神は御自分にかたどって人を創造された。・・・神は彼らを祝福していわれた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」(新共同訳)

 神は最初の人間夫婦をパラダイスであるエデンの園に置かれた。彼らは完全であり、パラダイスで永遠に生きる見込を有していた。神の地球と人類に対する当初の目的は、「永遠に生きる完全な人間でパラダイスとなった地球を満たし、神性を完全に反映する人類を通して神の支配を行うこと」であった。
 アダムとイヴの違反により、こうした神の計画はすぐには実現しなかったが、しかし、神は決して当初の目的を放棄されたわけではない。漸進的に少しずつその計画をl進めてきたのである。
 最初に神が準備を進められたのは、完全な政府を作ることであった。そのために用いられたのがイスラエル人である。  そのことは出エジプト19章5,6節(新改訳)の中に次のように示されている。

  「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」

 この聖句には、神の政府が「祭司の王国」「聖なる国民」となることが明示されている。
 祭司の王国を構成するのが最終的にはいったい誰になるのか、その点について明らかにしているのはダニエル書である。

  「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。
 しかし、いと高き方の聖徒たちが、国を受け継ぎ、永遠に、その国を保って世々限りなく続く。」 (ダニエル7:13,14,18 新改訳)

 祭司の王国の支配権は「人の子のような方」と「聖徒たち」に与えられることがわかる。
 よく知られているように、人の子のような方とはイエス・キリストを指している。イエス・キリストは再三にわたって、ご自身のことを人の子と語っておられるからである。そして、聖徒たちは「小さな群れ」ということになる。

  「恐れることはありません、小さな群れよ。あなた方の父は、あなた方に王国を与えることをよしとされたからです。」(ルカ12:32 新世界訳)

  「それでわたしは、ちょうどわたしの父がわたしと契約を結ばれたように、あなた方と王国のための契約を結び、あなた方がわたしの王国でわたしの食卓について食べたり飲んだりし、また座に着いてイスラエルの十二部族を裁くようにします。」(ルカ22:29,30 新世界訳)

 これらの聖句から、神の王国の支配権は「小さな群れ」であるキリストの弟子たちに与えられることがわかる。

《霊的イスラエル人》

 かつて、C・T・ラッセルの時代には、神のイスラエルを文字通りの意味にとり、生来のイスラエル人と考えていたようである。しかし現在のものみの塔協会はそうではない。キリスト以降の神のイスラエルは霊的イスラエルである。
 律法契約下にいた生来のイスラエル人は、祭司の王国の成員を大勢供給するはずであった。ところが彼らは一国民としては、その王国の王であるイエス・キリストを退けてしまった。キリストが弟子たちと結んだ新しい契約が有効となり、律法契約は廃されることになった。イスラエルの恵まれた立場はそのとき終了したのである。
 代わりに祭司の王国の成員になるよう招かれたのは、異邦諸国民であった。使徒ペテロはこの点について次のように記している。

  「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなた方を暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(ペテロ第一2:9 新共同訳)

 新しい契約下に招かれたクリスチャンは、真のイスラエル人を構成することになった。律法契約が有効なときは生来のイスラエル人が神の民であったが、それが廃されてからはクリスチャンが神の民になった。使徒パウロはこの点について次のように論じている。

  「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく”霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(ローマ2:28、29 新共同訳)

  「しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのでなく、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。』のだからです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。」(ローマ9:6〜8 新改訳)

 内面のイスラエル人、真のイスラエル人は祭司の王国のために産み出されたクリスチャンであり、彼らは霊的イスラエルの民を構成するのである。
 普通、臣民に比べて政府の職員は圧倒的に少ない。その成員は限られた人々から構成されており、数も制限されている。神の政府、祭司の王国にもこの点は当てはまるはずである。このように推論して、神の王国の構成員について述べている箇所を聖書の中から捜した。この問題の答えは黙示録(啓示)7章と14章に見い出された。
 啓示7章3,4節には、

  「わたしたちが、わたしたちの神の奴隷たちの額に証印を押してしまうまでは、地も海も木も損なってはならない。
 そしてわたしは、証印を押された者たちの数を聞いたが、それは十四万四千であり、イスラエルの子らのすべての部族の者たちが証印を押された。」

と記されている。
 新しい契約以降はクリスチャンが神の奴隷となったので、ここで述べられているイスラエルとは、生来のイスラエル人ではなくクリスチャンであることがわかる。一人ひとりに証印が押され、その数が問題にされていることから、この数字は限定されたものであることが明らかになる。したがって、この14万4千という数字は文字通りの数とみなすことができるのである。
 さらに、啓示14章1節には、

  「またわたしが見ると、見よ、子羊がシオンの山に立っており、彼と共に、十四万四千人の者が、彼の名と彼の父の名をその額に書かれて[立っていた]。」(新世界訳)

と記されている。
 ここのシオンは地上のシオンではなく、天のシオンである。なぜならキリストは昇天以来、地上ではなく天におられるからであり、子羊の姿で地上のシオンに再臨することは有り得ないからである。キリストの再臨は目に見えない臨在であり、最後の到来の時にはみ使いたちと共に栄光のうちに来ることになっている。
 こうした理由により、「天に行く人は14万4千人である」と考えることができる。神の地球と人類に関する最初の目的は、このようにイエス・キリストと14万4千人からなる祭司の王国により、その王国の千年間の支配を通して実現されることになる。
 ものみの塔協会はこのようにして説明しているわけであるが、しかし、これでも問題は一つ残っている。その点を質問されると、エホバの証人は非常に困ることになる。ものみの塔協会としてはなるべく触れてほしくない点であろう。  それは、なぜ14万4千人が象徴的な数字ではなく文字通りの数といえるのかという質問である。
「イスラエルは象徴的、部族も象徴的、部族ごとの1万2千も象徴的(単なる12000ではない、部族単位である)、シオンも象徴的、子羊も象徴的、それなのにどうして14万4千だけが文字通りの数になるのですか。」
「それは天に行く人の数が限られているからです。彼らが天に行くのは王なる祭司としてキリストの千年王国に加わるためだからです。」
「数が限られているからといって、また支配者になるからといって、別に14万4千人と決まったわけではないでしょう。それでは答えにも何もならないんじゃないですか。」
おそらく返答のしようがないであろう。
 結局のところこの点は、最後には統治体に対する信仰、組織に対する信頼の問題になってしまう。
 少々長くなってしまったが、以上がものみの塔協会の神の目的を基にした「天に行く人の数は14万4千人に限られる」という教理の論旨である。
 この論議は次の二つの論点を土台としている。

  1. キリストの花嫁、キリストの体となるクリスチャンの集合体は、真のイスラエルを構成する。
  2. 14万4千人という数字は象徴的なものではなく、文字通りの数である。

 この論点の一つが成り立たなくても、「天に行く人=14万4千人説」は崩壊してしまう。
 ものみの塔協会のこの教理が正しいかどうかを確かめるには、これら二つの論点の真偽を検討すれば良い。以下その点を調べて行くことにする。

(2) 黙示録のイスラエルは生来のイスラエルか

 キリストと共にシオンの山に立つ14万4千人のイスラエル人は、ものみの塔協会の主張しているように霊的イスラエル人であろうか。それとも、そうではなく、これらの人々は生来のイスラエルを指すのであろうか。どうもこの問題に関しては、まだ統一的な見解はないようである。

《象徴的な解釈》

 ものみの塔協会の「14万4千人のイスラエル人=霊的イスラエル、天的クラスのクリスチャン」の解釈のほかにも、象徴的な解釈としては「全キリスト者を表す」「終末時の全教会の象徴」「艱難を通過して天に移された人々」などの考え方が提唱されている。
 これらの解釈は、クリスチャンを象徴しているという点ではみな同じである。しかし、どういうクリスチャンを表すのか、すなわち、どの時節のどのレベルのクリスチャンを指すと考えるかによって、解釈は異なってくる。聖書注解者の意見は大きく二つに分かれているようである。
 新改訳、黙示録7章4〜8節の脚注には、その点が次のように簡潔に要約されている。

  「ユダヤ人の十二部族から一万二千人ずつを選んだ総計であり、ユダヤ人の救われた者を指すと考える者もいるが、むしろ霊的な意味でのイスラエルととり、すべての救われた者を指すと考える者もいる。」

《生来のイスラエルと断定できるか》

 そのように考える聖書注解者は多いようである。書店に出ている一般的な預言書、黙示録の解説書などは、ほとんどが生来のイスラエル説をとっている。
 ジョン・F・ワルブード著「イエス・キリストの黙示」(p.259−260)の中にその理由がわかりやすく説明されているので、その一部を以下に引用することにする。

   患難時代との特別な関連において、イスラエルの十二部族が選び出されるということは「イスラエル」ということばが聖書において用いられる時には、最初にイスラエルという名を与えられたヤコブの子孫を常に指しているということの、もう一つの証拠である。ガラテア六:16も例外ではない。教会が真のイスラエルであるという広く行き渡っている考え方は、聖書のいかなる明確な言及によっても支持されておらず、イスラエルという語は、異邦人に対しては決して用いられておらず、人種的にイスラエル、あるいはヤコブの子孫である者に対してのみ用いられている。

 続いてワルブードは、このような見解を支持するものとして、ウィリアム・ケリーの次の言葉を引用している。

   その反面、部族の名を個々にあげて行くことは、字義的にとる以外には、いかなる意味においても矛盾がある。さらに、イスラエルの民の中の印を押された者の数と、あらゆる国民、部族、民族、国語の中からの無数の群衆との間には、言うまでもなく、明らかな、積極的な、矛盾がある。したがって、象徴的にとる説は、詳細に検討する時、不合理であるという非難を免れることはできない。なぜなら、それはこの章において明らかに対照的なものであるとされているにもかかわらず、印を押されたイスラエルと、しゅろの枝を持った異邦人とを同一視しているからである。

 生来のイスラエル説の根拠として挙げられている主なポイントは二つである。その一つは、「聖書中でイスラエルという語が使われている場合、それは常に生来のイスラエルを指している」というものであり、もう一つは、「異邦人からなる大群衆と対照してイスラエルという語を用いているのだから、象徴的に解釈するのはおかしい」というものである。
 はたして、この指摘は決定的なものであろうか。ワルブードは「象徴的な解釈は、聖書のいかなる明確な言及によっても支持されておらず」と断言しているが、調べてみると、必ずしもそうだと言い切ることはできないことがわかる。なぜかといえば、やはり解釈の視点が問題となるからである。
 例えば、ガラテア6章16節「このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように」のイスラエルであるが、このイスラエルは生来のイスラエルではなくクリスチャンを指しているという論議も十分に成り立つ。
 前の15節を見るとわかるように、パウロがここで述べている原理とは割礼によって代表される律法の原理ではない。それは新しい創造によって現されるキリスト教の原理である。その原理に従う人とはいったい誰であろうか。それが生来のイスラエル人ではなく、クリスチャンであることは言うまでもない。さらに、この手紙はガラテヤにあったイスラエルの会堂に当てて書かれたのではなく、クリスチャンの諸会衆に当てられたものである。そうであってみれば、ここで言う神のイスラエルを生来のイスラエルとみなすのは、極めて不自然だということになる。ここのイスラエルは、生来のイスラエル人ではなくクリスチャンを指していると考えるほうが、文脈にもパウロの論議全体にもはるかに調和している。
 大群衆とイスラエルの対比については、それこそものみの塔協会の教理のような「支配者と臣民」という関係でも説明可能であろうし、あるいは「教会時代のクリスチャンと艱難後のクリスチャン」「政府の要員と職員」というような考え方もできるだろうと思う。いずれにしても、この対比は決定的な要素ではない。
 14万4千人=霊的イスラエル説も十分それなりに成立しうるし、またかなりの説得力もある。現状ではこの問題は断定し難いというのが妥当な結論であろう。
 したがって、ものみの塔協会の教理の間違いを論証する上で、この観点は不十分である。生来のイスラエル説では決定的な論証とはなりえない。事実によってはっきりと断定できるのは第二の論点である。

(3) 天に行く人は14万4千人に限られてはいない

 14万4千人を集める業は西暦33年のペンテコステに始まり、1935年にはそのほとんどが終了したとされている。その年以降、神の関心は地の臣民となる大群衆に向けられ始めたことになっているからである。1935年は、ものみの塔協会では収穫の業の歴史的な転換点に当たる年とされている。
 この主張の真偽を確かめるのはそれほど難しいことではない。一世紀から1935年ころまでのクリスチャンの数を数えてみれば、それではっきりするからである。1914年当時から、わずかながら地的クラスの人もいたということになってはいるが、その数は無視しても一向に差し支えない程度のものである。
「神が偽ることのできない事柄」という本の22ページには、

  「真理はそれ自体矛盾せず、事実を否定しません。それはあるがままの現実と矛盾せず、人によって別もの、まして相反するものではありません。・・・・真理は現実の事実によって証明可能です。真理は純粋で実在のものであり、現実と一致しているゆえに永続します。」

と述べられているので、「現実の事実」によって確かめるのが最善であろう。
 一世紀当時から現代に至るまでのクリスチャンの総人口を厳密に知ることはできないが、聖書の記述と歴史の文献およびものみの塔協会の出版物から、この問題に対する答えを知るには十分の情報を得ることができる。

《聖書からの情報》

使徒1:15キリストの昇天の日に120名ほどの弟子がエルサレムの近くに集まっていた。
2:41五旬節の日に3000人がバプテスマを受けた
4: 4男の数だけで5000人が信じた
6: 7エルサレムで信者が非常に増える
9:31ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地で信者が増える
9:35ルダとシャロンに住む人はみな主に立ち返った
9:42ヨッパで多くの人々が主を信じた
10:44コルネリオと共にいたすべての人に聖霊が下った
11:19,21フェニキヤ、キプロス、アンテオケの大勢の人が主に立ち返った
11:24アンテオケの大勢の人が主へと導かれた
13:48ピシデアのアンテオキアの異邦人も信仰に入った
14: 1イコニオムでユダヤ人、ギリシャ人の大勢の人が信仰に入った
14:21デルベでかなり多くの人を弟子とした
16:33テアテラで看守とその家の者全部がバプテスマを受けた
21:20ユダヤ人の中で信仰に入っている者は幾万となくいる
コロ1: 6福音は世界中で実を結んでいる。

 キリスト教がローマ社会全体に広まっていった結果、ユダヤ人よりも異邦人の信者の方がはるかに多くなった。ユダヤ人だけで幾万人もの信者がいたわけだから、全部のクリスチャンの数は少なく見積もっても、パウロがエルサレムに上った時点ですでに10万人を越えていたと考えられる。その後もキリスト教の拡大は順調に続いていったわけだから、AD70年のエルサレム滅亡前の段階で、すでに14万4千人をはるかに越える状況にあったと考えられるのである。

《1世紀末以降のローマ時代》

 この時期に関して聖書から直接得られる情報は全くない。しかし、初期教父たちの文献やローマ側の資料から、その当時の様子を知ることができる。

   第1世紀末ローマに反キリスト教的指令の発布されたとき、クレメンスの手紙によれば、宮廷に属する者からも迫害に遭った人があり、政府軍人の階級もその対象とされたらしい。ドミティアヌス帝の姻戚さえ「無神論者」の疑いを帰せられて迫害・追放を受けた者があった。トラヤヌスやマルクス・アウレリウスのごとき平和的治世の下においてさえ、イグナティオスやポリュカルポスやユスティノス等の殉教記録が残っているのは、キリスト教普及の反証と見られる。小プリニウスがビティニア州総督に赴任したとき、その地方民の大多数が「無秩序な迷信」に惑わされているのに驚き、いかに処置すべきかという方針について、トラヤヌス帝に報告しかつ指示を仰いだ往復文書が残されている。キリスト教分布の程度は地方により同じくないが、ローマの統治官をかように当惑させた地方もあったのである。(「キリスト教の源流」石原 謙著 p.80)

 1世紀の末には下層階級の人々ばかりではなく、ローマの宮廷の中にもキリスト教を奉じる人が大勢いた。地方によっては住民の大多数がクリスチャンという所もあったのである。
 2世紀になるとキリスト教はさらに拡大していった。「世界の歴史5ローマ帝国とキリスト教」には次のように述べられている。

  「キリスト教徒はじつに数が多くて、都市ばかりでなく農村にも、さらに草深い田舎にも拡がってい(た)」 (p.345)

  「のちに二世紀の末になって『護教論』を書いたテルトゥリアヌスは、そのなかでこの事態を簡潔に、しかし誇らかにこう記している。

  『ティベル川が氾濫するとき、ナイルの出水が足りないとき、雨が降らないとき、地震のとき、飢饉、悪疫が起こるとき、すぐさま人はキリスト教徒をライオンに投げよ、と叫ぶ。いったいこれだけの人数をライオン一頭に投じきれるというのか。・・・・・・われわれはあなた方によって斃(たお)されるたびごとに多数に増加する。キリスト教徒の血は種子なのである。』」(p.353,354)

   「迫害の強化にもかかわらず、信徒の増大と組織の強化は着々とすすめられていた。その勢いを抑えるために、201年に出された法律は、ユダヤ教とキリスト教への改宗を極刑をもって禁ずるものだった」

 さらに「キリスト教史1」(半田 元夫・今野 國雄著 p.167)は

   三百年代になると、エウセビオスが「キリストの祭壇は今やすべての村々や町々にみられる」という状況になっている。・・・
   小アジアでもフリュギアのはるか北の地方で発見されたおびただしい碑文は、帝室領の田舎の人々が公然とキリスト教の信仰を表明していたことを示しており、墓碑銘に好んで描かれている鋤、鎌は、彼らの出自が農民であることを語っている。

と記している。
 この時代になると、もはやクリスチャンの数は数10万どころではない。ローマ帝国のいたるところ、その隅々までキリスト教は普及していたのである。次の図はその状況を示したものである。

大迫害前夜のキリスト教分布図 (37KB)

《暗黒時代》

 この期間のカギを握っているのは、マタイ13章に記されている「小麦と雑草(毒麦)」のたとえ話である。その中で主人であるキリストは「収穫まで両方とも一緒に成長させておきなさい」と述べておられる。つまり、小麦のような真のクリスチャンも毒麦のような偽のクリスチャンも収穫の時までは混在状態にあるということである。
 やがて、毒麦が畑を覆い尽くすようになったが、この期間にも真のクリスチャンは存在した。ものみの塔協会もこの点は認めている。

《ものみの塔協会の公表した人数》

 エホバの証人は年に一度「主の記念式」を開く。その時パンを食べ、ぶどう酒を飲む人が天へ行く人々で、何も食べない人が地上での永遠の命をめざす人々である。記念式のときにパンとぶどう酒に与かった人の数を数えると天的クラスの人数がわかる。
 ものみの塔協会の教理ではキリストは1914年に臨在したことになっている。収穫の時はすでに到来しているという見解になっているので、その仮定に立って人数を数えることにする。それゆえ現代のクリスチャンの数の中には、ものみの塔協会のあげる人数以外は含めないことにする。

『象徴物にあずかった人の数』
1899年 3月26日  2,501人(不完全な報告)
(「1976エホバの証人の年鑑」p.42)
1917年 4月 5日 21,274人(不完全な報告)
(「1976エホバの証人の年鑑」p.94)
1919年 4月13日 17,961人(不完全な報告)
(「秘義」p.301)
1925年 4月 8日 90,434人(これは出席者数であるがこの当時は地的な希望を持つ人は記念式に招待されなかった)
(「千年王国」p.236)
1939年 世界の伝道者数 71,509人(他の羊が集められはじめたばかりなので大多数は天的クラス)
(「自由の子」p.150)

 ものみの塔協会は

  「そうした集めるわざが過去18世紀余なされた後の、この二十世紀の時代までには、代わりとして用いられねばならない人々は比較的少数、あるいはごく少数しかいないはずです」

と指摘している。(ものみの塔誌1975年 2月15日号 p.120)
 ところが、少数といいながら実際は、ピーク時には何と「9万人以上」を記録しているのである。14万4千人の半分を大幅に越える数字である。これも大きな矛盾点の一つといえる。

《天に行く人=14万4千人説は成立しえない》

 現実の証拠を検討してみると、どんなことがいえるであろうか。それは、あまりにもクリスチャンの数は多すぎるということである。
 天に行く人を14万4千人に限定してしまうには、天をめざした人は膨大すぎる。その数はどう少なく見積もっても何百万人にもなる。その中から、わずか14万4千人しか選ばれなかったのであろうか。神とキリストの神性からいっても、とうていそのようなことは考えられない。
 ものみの塔協会は「天と地を同時にめざすことはできません。天的希望と地的希望を両天秤にかけることはできません。最後まで天をめざした場合、片方が駄目だからといって別の方に乗り換えることができるわけではありません」と教えている。それでは14万4千人以外のクリスチャンはどうなってしまうのであろうか。
 イエス・キリストが「招かれる者は多いが選ばれる者は少ないのです」(マタイ22:14)と語ったのは事実である。しかし、それでも天をめざした人の数はあまりにも多い。キリストはまだ再臨していないわけだから(この問題は後の章で検討する)、この要素を加えると天的クラスの候補生は何千万という数字になってしまう。現実にはとうてい、天に行く人=14万4千人説はありえない教理である。
 この矛盾に対する有効な答えはない。内部向けには幾つかの解答を試みているが、立証可能な現実の証拠はない。
 例えば、ものみの塔協会は「三位一体や魂の不滅のようなバビロン的な教理を信じていた人は皆だめです」というようなことを主張してきた。これは、つまり、「背教が生じてからのクリスチャンはみな除外される。現代では、ものみの塔協会が真理を回復してからの、真のクリスチャンしか含まれない」ということを意味している。しかし、仮にそうであったとしても、ものみの塔協会だけで過半数を越えるというのは数が多すぎるのである。加えて、この主張は「ものみの塔協会の教理だけが唯一の真理である。神の組織はその他にはない」という全く立証されていないことを前提としている。とうてい成り立つような論議ではない。
 教理の異なった人を是認するかしないかは、本来、天の判断すべきことであって、ものみの塔協会の独善的な裁量で決定すべき問題ではない。論証したなら後は天に委ねるべきことである。
 もう一つの方は、組織の幹部の実態を知らない人には説得力があるかもしれない。「天へ行く人には非常に高い規準が求められる。真理を深く愛し、キリストの足跡に固く付き従う者でなければならない。彼らには不滅の命が与えられるので、絶対に不忠節にならないことが要求される。ゆえに、選ばれる人はわずか14万4千人しかいないのである」という説明である。
 しかし、この点も今や完全に否定された。レベルの高い人々の代表であるはずの統治体が、偽善者の集団であったからである。天の権威を軽んじ、組織崇拝を推し進め、聖書の原則を擁護しない人々をキリストが共同統治者に選ぶことなど絶対にあり得ない。