1982年夏の大会で、待望久しい日本語版の新世界訳聖書(ものみの塔協会発行)が発表されました。その新しい聖書は日本中のエホバの証人から、そして彼らと共に聖書を学ぶ大勢の人々から、歓呼を持って迎えられた。

それまで、一巻にまとめられた聖書はなく、ほとんどのエホバの証人は、ギリシャ語聖書(新約1973年刊行)が新世界訳、ヘブライ語聖書(旧訳)の方は文語訳(日本聖書協会発行)という具合に、二冊の聖書を使っていた。中には特別に製本してもらい一巻にまとめている人もいたが、たいていの人は集会や奉仕に二冊の聖書を持ち歩かねばならず、ずいぶん不便な思いをしていたのである。

こうして大いに歓迎された新世界訳ではあったが、しばらくすると、どうにも引っかかるものを感じて仕方がなくなった。何とも読みにくいのである。思わず首をひねってしまうような文章がかなりの数に上る。極めて難解だ、分かりにくいという印象を深めるようになった。新改訳や文語訳と比較してみると、新世界訳よりもずっと意味が分かりやすいというところが沢山あった。究極の聖書、世界一の聖書というものみの塔協会の宣伝のわりにはどうにも冴えないのである。

しかし、この当時はまだ翻訳に問題があるとはまったく考えていなかった。まして英語版の方に何か欠陥があるなどとは夢想だにしなかった。ひたすら自分たちの頭が悪いせいである、こちらの理解力不足に原因があると思いこんでいた。聖書はもともと難しいものであるという先入観も働いていたのではないかと思う。

それがどうもこれは私たちの頭のせいばかりではなく、翻訳にも問題があるのではないかと考えるようになったのは、日本語版と英語版を比べて読み出してからである。

特に、英語版を見ていて、「この表現は意味の異なる何通りかの訳が可能である、一体どっちの方を選んだのであろう」と思えるようなところを重点的に当たってみた。すると、なるほどと感じさせられるほど巧みに訳してある箇所もある反面、「これでは分かりにくいのも無理はない、どうしてこんなふうに訳したんだろう、もっと全体の意味を考えればよかったのに、はっきり言えば誤訳ではないか」と思うようなところも幾つか見出されるようになった。「一度、本格的に検討してみる必要があるのではないか」ということになったのは、去年の夏のことである。

9月からチームを組んで、創世記から調査を開始した。作業を始めてみると間もなく、英語版と日本語版を比較するだけではどうしようもないことが分かった。英語のある単語に何通りかの意味がある場合、文脈から判断するだけでは、その意味を固定することはできなかった。幾通りもある意味の中からそのうちのどれを選ぶかということは、単なる英語から日本語への翻訳の問題だけでは片付かないからである。

例えば後でも取り上げるが、最初にぶつかったのが創世記1章2節に出てくる「水の深み」(もとの英語はwatery deep)という語であった。このwatery deepに対して日本語版は統一的に「水の深み」という訳語を当てている。

「deep」には形容詞の他に「淵、深淵、海、大海原、海淵、海溝、大空」など名詞としても多くの意味がある。しかし日本語の「深み」には「(川などの)深い所、深間、深さの程度」というような狭い意味しかない「deep」に比べ、「深み」は非常に意味の振幅が小さいのである。

「watery deep」に対して、はたして全部「水の深み」で良いかどうかを確かめるには、聖書の原語であるヘブライ語を見てその意味にどの程度の幅があるかを調べてみる以外にはない。というわけで、ヘブライ語に関する知識はほとんどなかったが、私たちにできる範囲で資料を集め、ヘブライ語からの検討も始めることにした。

創世記の調査は約一ヶ月で終了したが、多少の疑問は感じながらも、その段階ではまだ英語版に問題があるとは思っていなかった。欠陥のほとんどは日本語訳の悪訳、迷訳、誤訳のせいであろうと考えていた。しかし、調査を進めるにしたがって、しだいに日本語版だけに罪があるとは言えないのではないかと思うようになった。

というのは、感心するくらい日本語版は英語版に忠実なのである。本当にその忠実さには敬服してしまう。英語版を字句通り、ただひたすら忠実に訳せばだいたい今の日本語版になる。

そうである以上、日本語版だけが欠陥聖書で英語版にはまったく問題がないなどということが、果たしてあり得るだろうか。そういうことはとても考えられない。むしろ、日本語版の問題点の大部分は決して日本語版だけのものではなく、英語版と共通の病根を有していると判断するのがごく自然なことであろう。時が立てば立つほど、英語版の抱えている本質的な問題点が、極端に出てしまったのが今の日本語版ではないかと思えるようになった。

では、そうした問題は一体どこから生じてくるのであろうか。翻訳委員会の語学力の不足がその原因になっているのかというと、どうもそうではないらしい。ものみの塔協会の翻訳スタッフの語学力は、相当に優れたものと考えられるからである。

日本語版の前書きには、次のように記されているくらいである。
「この日本語への翻訳は、新世界訳聖書翻訳委員会によるものではありませんが、同委員会の作業を反映し、それに基づいたものです。これは、アメリカ、ペンシルバニア州ものみの塔聖書冊子協会のもとに働く、日本人の有能な翻訳者たちによる忠実で良心的な翻訳です。したがって、私たちは、確信と喜びを抱きつつ、祈りを込めて、この新世界訳聖書を日本語の読者のために刊行いたします」(下線は広島会衆)

また「目ざめよ」誌1987年3月22日号には次のような評価が載せられている。

「明らかにこの翻訳は、熟練した有能な学者たちの手によるものである。彼らは、可能な限りの英語表現を駆使してギリシャ語本文の真の意味をできるだけ正確に伝えようとしてきた」(ヘブライ語およびギリシャ語学者アレグザンダー・トムソン・ディファレンシエーター誌、1952年4月号、P.52-57)
「この新約聖書の翻訳は、匿名の委員から成る委員会によって行われた。その委員会はギリシャ語に対する並外れた能力を備えていた」(アンドーバー・ニュートン・クォータリー誌、1986年9月号)

これでは語学力に原因があるとはまず考えられない。実際調べてみるとよく分かるが、新世界訳翻訳委員会が多大の努力を払い、字義を熱心にしかも徹底的に研究していることは間違いのないことである。その調査にはおそらく膨大な時間とエネルギーが投入されたに違いない。新世界訳聖書がそうした絶え間ない研究の成果の結晶であることに疑問の余地はない。

したがって、単なる翻訳の技術の問題といったような、表層的なものが原因になっているとはとても考えられない。本質的な原因は、何かもっと深いところに根ざしているのではないかと思われるのである。

新世界訳聖書というのは字義訳聖書である。この字義訳という翻訳方針は新世界訳の看板になっている。もちろん字義訳にもそれなりの利点はあると思うが、「過ぎたるは及ばざるよりも劣れり」で、字義優先に走り過ぎると深刻な問題が生じてくる。新世界訳聖書の問題の原因を考えて行くうちに、最後に浮かび上ったのは、この字義訳主義ともいえるものみの塔協会の翻訳姿勢、ないしは翻訳のモードであった。新世界訳聖書の欠陥はまさにこうした極めて本質的な部分から来ていると考えられるのである。

さて、たいていの宗教組織は、組織に入るまでは奉仕者、組織に入ってしまえば支配者といった二つの顔を持っている。言い換えると、組織に入るまでは建前で接し、入ってしまえば本音で扱うということである。巨大な組織宗教になるほど建前と本音が巧みに分れているので、組織の成員にはその自覚がほとんどないくらいである。充分わかったときにはもう遅い、つまり、心理的な意味でいえば、仏罰が恐ろしいとかハルマゲドンの滅びが恐ろしいということになりかねないのが普通である。もっとも、あまり深刻に考えない人であれば、強迫観念に苦しめられることはないと思うが。

ものみの塔協会も、もちろん例外ではない。むしろ、そういう組織の典型的な部類に入るであろう。全員がそうだとは言わないが、組織的に円熟した人とは使い分けの見事な人のことであり、そういう人ほど組織の階級制度を上って幹部になっているのが実状である。また、諸教会に脅威を与えるほどの猛烈な伝道のエネルギーも、極端なまでの終末観と決して無関係ではない。

ほとんどのキリスト教の組織の場合、組織の本音の部分における聖書観、取り組み方というのが、その組織の在り方や体質を端的に示すものとなっている。同時にそれは、教義とも密接に関連しており、時には教義自体、聖書教義と組織教義とに分かれていることもある。複雑に入り組んではいるが、組織の本音と建前はまた教義における本音と建前でもある。もし、その組織で独自の聖書翻訳を出すとすれば、こうした諸々の要素が翻訳の姿勢や方針を決定する主要な要因となる。

聖書と教義、組織の体質は一方的な関係ではない。両者は交互に関係し合っている。いったん聖書解釈の規準が定められると、今度はそれがフィードバックシステムのように組織に還元され、逆に組織そのものの体質を育んでゆくという側面もある。そのような組織モードが巨大な潮流に成長すると、もはや組織自体にも制御不能となる。モードを変えることは、一度組織の歩みを止めるほどの大きな変化を求められることになるからである。

このように、教義と翻訳そして組織の体質は、はっきりと境界線を引くことのできない位相関係のようなものであり、どちらか一方を分離して扱うというようなことはできない。それゆえ新世界訳聖書の欠陥と、ものみの塔協会の体質上の問題点もまた、切り離して考えることのできないものと言える。それは同質、同根のものと考えられるのである。

何といっても、現ものみの塔協会の最大の欠陥は、神権ファシズム、組織崇拝ともいえるその体質であり、それが生み出した弊害である。したがって一言でいえば、新世界訳の欠陥とは、この組織崇拝が生み出した欠陥でもある、というのが今回の私たちの調査の最終的な印象であった。それは同時に、組織崇拝を育んだものみの塔協会の教義上の欠陥でもあろう。

さて、2章以降で上げる新世界訳聖書の具体的な問題点は、一部、新世界訳翻訳委員会にも送り、何度かその見解を尋ねたものである。また、早急に改訳が必要であることを伝え、その意志があるかどうかを聞いてみたが、まったく返事はなかった。

彼らには質問に答える責任があるはずである。沈黙は重大な違反行為といえる。なぜなら1982年版の前書きには、次のように記されているからである。

聖書をその原語であるヘブライ語、アラム語およびギリシャ語から現代の言葉に翻訳することは、重い責任の伴う仕事です。・・・・これは人を厳粛な気持ちにさせます。聖書の著者であられる神に対する恐れと愛を抱く翻訳者は、そのお考えや宣言をできる限り正確に伝えるよう、特に神に対して責任を感じます。また、現代の翻訳聖書を熱心に研究し、永遠の救いのために至高の神の霊感の言葉に依り頼む読者に対しても責任を感じます」(下線は広島会衆)

このように表明している以上、良心的なクリスチャンであれば質問に答えるはずである。しかし、新世界訳翻訳委員会は一かけらの誠意も示そうとはしなかった。神に対する恐れ、愛、責任、いったいどこへ行ってしまったのであろうか。どうやら単なる言葉でしかないようである。

至高の神の名を自らに付し、世界の何百万という人々を指導する立場にありながら、平然と偽善的な態度を取り続けるとは・・・・。これが今回の調査を公表するに至った最大の理由である。またできればこれを機会に聖書翻訳、教義、組織等のより本質的な問題点をさらに検討してゆきたいと考えている。