7章 字義訳−新世界訳は必要か!

(1)新世界訳のより本質的な問題

 字義訳新世界訳には、やはり逐語訳の欠陥のすべてが含まれていた。新世界訳の正確さとは単語のコンピューター的な処理による字句の正確さに過ぎず、文章全体の意味や音信の主旨の正確さではなかった。部分の正確さを追及した結果が、かえって全体の不調和や不明瞭さの原因となっていることは、例証してきた通りである。新世界訳はおびただしい数の不自然な表現や極端な冗長さにより、非常に分かりにくく、読みにくい聖書になっている。

 加えて新世界訳には、ものみの塔協会の体質上の欠陥も反映されている。1940年代の強力な組織化と共に生み出され、改訂されたときにはさらに組織化が進んでいたという背景がある。新世界訳の母体はものみの塔協会、その精神はものみの塔協会の精神である。

 このような聖書に長く親しんでいると、どのような弊害が出てくるだろうか。「日本の文章」の49頁には、その点を示す非常によい例えが載っている。これは新世界訳の欠陥の霊的な側面を表しており、翻訳上の問題よりはもっと重要なより本質的な部分を示しているといえる。

 「たかが文章くらいと言うけれど、度の合わないメガネをかけていると目が悪くなるというのは常識だ。焦点のはっきりしない訳文を通して対象を見定めようとすることを長くつづけていれば頭も悪くなる道理である」

 目の方は悪くなると物がはっきり見えなくなるので比較的気が付きやすいが、霊的頭、心脳の方はなかなかそうはいかない。特に自分たちは世界で最も啓発された唯一の真理の民であると自負しているものみの塔協会の幹部の場合は、自覚のある人は皆無に近いであろう。末端のエホバの証人の方は、翻訳に問題があるなどとは夢にも思わず、ひたすら自分たちの頭が悪いせいであると思い込んでいるはずである。もっとも自分はよくわかっていないと思っている謙虚な人に限られてはくるが。

 考えてみると、こういう聖書に慣れてしまうことには、非常に恐ろしい一面がある。字句が分かったというだけで全体が分かったかのような錯覚を起こしやすいのである。もちろんこれは少々極端な言い方ではあるが。組織は分かりやすい、分かりやすいと宣伝するので、そう思わないと不忠節になるのではないかというような意識も働くし、何度も聞いているうちにしまいには本人もだんだん分かっているような気になってくる。組織の幹部の方は分かっているつもりなのでよけいに始末が悪い。

 組織の体制全体がこうなってしまうと、実際には何が分からないかもよく分からなくなってしまう。目で追う聖書の言葉は単なる反射言語にすぎず、心脳言語にはならないのである。「聖書読みの聖書知らず」が大量生産されてゆく背景にはこうした側面がある。ものみの塔協会の「度」の基準が絶対的に正しいと思い込み、自分たちの心脳の働きが悪くたっているとは考えてもみないのである。

 また字義優先の思想はヘブライ語、ギリシャ語信仰にもつながってゆきかねない。ヘブライ語、ギリシャ語が重要でないというわけでは決してないが、度が過ぎると聖書解釈がヘブライ語、ギリシャ語の字義に依存しすぎるという問題が生じてくる。この面での権威者とされるキッテルの研究について「新約聖書諸論」(エヴェレット・F・ハリソン著)という本はその九十九頁で、

 「神学的意義を持つギリシャ語の用法を、古典の背景から70人訳聖書を経て、新約聖書に至るまで、(ヘレニズム時代の世俗の出典を無視することなく)たどるというのが、キッテル(Gerhard Kittel)とフリードリッヒ(Gerhard Friedrich)によって、順次編集されたあの何巻にも及ぶ新約聖書神学用語辞典(Theologisches Worterbuch zum Neuen Testaent)でとられた方法である。この辞典の価値は、ほとんど世界中で、好意を持って受け入れられている。」

と評価しているが、同時に次のような批判があることも指摘している。

 「もちろん、批判者もないわけではなく、中でも特に、ジェームズ・バー(James Barr)は以下の点を鋭く指摘する。すなわち、語源学にあまりにも依存しすぎていること、言語学的判断と哲学−神学的判断との根拠のない混同、文脈の要求を十分考慮することなく、孤立した単語を強調しすぎること、言葉から概念にあまりにも簡単に移行しすぎること、ヘブル的概念とギリシャ的概念を安易に対照させすぎることなどである。これらの批判は、他の反対論と共に、釈義や聖書神学の土台として聖書の言語を取り上げる人々が、陥りやすい危険を指摘している。」

 特別優れた言語とか、とりわけ劣った言語というものがあろうはずはない。ヘブライ語、ギリシャ語といってみても所詮はニュアンスの相違に過ぎない。字義による深い研究とは、多くの場合単たる言葉の置き換えである。ものみの塔誌にもたいして意味のないトートロジー(類語反復)がよく載せられている。そういうのを有難がる人は別として、意味から言えばそれほど決定的な相違があるというわけではない。字義にこだわり過ぎると、むしろ、重箱の隅をほじくるような、「ブヨこし取り、ラクダ飲み込む」式の聖書研究に陥りやすい。

 こういう弊害はキリスト教にとっては致命的な欠陥になりかねない。まさにキリスト教の実質的な力、存在意義に関わってくるレベルの欠陥である。意味の理解にヴェールをかけるということは、非常に重要な問題である。というのは、マタイ13章14,15節でイエス・キリストは次のように述べているからである。

 「イザヤの預言は彼らに成就しています。それはこう述べています。『あなた方は聞くには聞くが、決してその意味を悟らず、見るには見るが、決して見えないであろう。この民の心は受け入れる力がなくなり、彼らは耳で聞いたが反応がなく、その目を閉じてしまったからである。これは、彼らが自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心でその意味を悟って立ち返り、わたしが彼らをいやす、ということが決してないためである』」

 この言葉から分かるように、意味が悟れない人には神からのいやしがない。つまり、魂の救いはないのである。心の目、心脳の働きが悪くなるということは、クリスチャンにとっては致命的な問題となる。意味の理解はもっともっと強調されてしかるべきである。

 「読書百編意おのずから通ず」ということわざもあるが、これは聖書通読には別の意味で当てはまることが多いようである。意味の分からないものでも百回読めば分かった気分くらいにはなれると。その間に心脳の麻簿は秘かに進行してゆく。繰り返すばかりが能ではない。もっと心の理解に目を向けるべきである。

 現在のものみの塔協会内の霊的荒廃と新世界訳は決して無関係ではない。もちろん非とされるべきはものみの塔協会の体質の方であるが、新世界訳がそれに貢献していることは否定しようがない。新世界訳は「霊的いやし」には極めて不向きな聖書だからである。できるだけ早い機会に改訳すべきであろう。

 新世界訳聖書の前書きには「神と人に対して責任を感じる」と記されているわけだから、新世界訳翻訳委員会は是非ともその公約を果たしてほしいものである。神と人に対する良心が少しでも残っているなら、組織の権威でごまかそうとするのではなく早急に問題を正すべきであろう。

 もし改訳するのであれば、この機会に是非二つの聖書を検討してみてほしいと思う。中途半端な字義訳はやめて、徹底的な字義訳、完全な逐語訳を一つ作り、それは研究用にしてしまう。そして通読用には分かりにくい、読みにくい、長すぎるという字義訳ではなく、意味のすっきり分かる聖書を作るのである。通読用の聖書には外部からの提案や要求も可能な限り含めてほしい。自分たち以外はみなサタンの世の人、バビロンの人、意見など聞く必要がないなどと決め付けないで、有用な提案には積極的に耳を傾けるよう努力すべきであろう。

(2)読みやすい聖書のために

 聖書をもっと読みやすくするために提案されている点をまとめるとだいたい次のようになる。

1. 冗長さを廃し、文章の凝縮度を高める。

 「だいぶ前に亡くなったが、佐々木邦というユーモア作家がいた。だれにもたいへんよくわかる文章で小説を書くというので、多くの愛読者をもっていた作家である。
 縁があって、佐々木さんのところへときどき伺った。
あるとき、
 『どうしたらわかりやすい文章が書けるのでしょうか』とたずねてみた。すると、佐々木さんは
 『同じことばをくりかえさないことですね。同じことばがすぐ近くに出てくる文章は読む人に難しいという感じを与えるようですよ。』
と言われた」(「文章を書く心」P.49外山滋比古著)

(1) 空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、然るに天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之より一も遥かに優るる者たらずや。汝らの中たれか思い煩ひて身の長一尺を加え得んや。又なにゆえ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、労せず、紡がざるなり。されど我汝らに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その服装いこの花の一つにも如かざりき。今日ありて明日、炉の投げ入れらるる野の草をも、神はかく装ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。さらば何を食らひ、何を飲み、なにを着んとて思ひ煩ふな。

(2) 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしたい、しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。

 (2)は(1)にくらべて格段に冗長である。口語体が文語体ほどに簡潔であり得ないのは、いはば宿命的な欠陥だらうが、しかしそれにしても度が過ぎる。(2)の翻訳者たちはおそらく、口語体のそのやうな弱点を一度も意識したことのない呑気な人々なのであらう。なぜならここには、文章の凝縮度を高めようといふ努力の影さへも見られないからである。たとへば「あなたがたの天の父」の「あなたがたの」は除いていっこう差支えない。「養っていて下さる」は「養って下さる」ないし「養ってくれる」にするほうがよい。「自分の寿命」は「自分の」を取って単に「寿命」あるいは「命」としたほうがすっきりする。このやうな配慮の方法を知らず、また、配慮の必要を感じたかった人々が聖書翻訳の仕事にいそしむとき、イエスの言葉は、「きょうは生きえていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか」といふやうな、イエスの口から断じて出るはずがない、平板で力点がなくて、たるみにたるんでいる駄文と化してしまふのである。(「日本語のために」P.58,59,61丸谷才一著)

 この冗長さという問題はもっと真剣に考慮しても良いのではないかと思う。それでなくとも聖書は長いのに、何もわざわざ冗長にしてそれに貢献することはない。もう少し短時間で読めるように訳者は親切を示すべきであろう。次のような指摘も是非翻訳のレベルで検討してみてほしい。

 今日一般的に受け入れられている標準本文のもととなった「レニングラード」写本は、1008年のものである。しかし「クムラン写本」の発見により、一気に1千年も前の『聖書』本文が明らかになったことになる。完全な形で残されたクムランの「イザヤ書写本」と現在のマソラ本文とを比較してみると、多くの相違が見出されるが、そのほとんどは些細なもので、全体としてはマソラ学者による本文伝承が、きわめて正確なものであったことが裏付けられた。

 他方・相違について興味深い事実も明らかになった。たとえば、『旧約聖書』のギリシャ語訳である70人訳の「エレミヤ書」には、マソラ本文に見られる多くの語や文が欠け、全体として8分の1短い。それまでこのことは、訳者のずさんさや意図的省略によるものとしばしば考えられてきた。しかしクムランから発見された「エレミヤ書」の断片は、マソラ本文よりもギリシャ語訳の内容に近いヘブル語本文を示している。したがって、これにより70人訳が用いた「ヘブル語底本」が現在のマソラ本文とは異なる系統のものであったという事実と、ヘブル語本文にかなり遅い段階にまで拡張や付加がなされ続けたという可能性とが明らかになったのである。
(「死海文書の発見」山我哲雄著 歴史読本特別増刊/'87-1p.133,134)

2. よけいな接続詞を用いない。

 「英語の作文の本に『センテンスを"そして"(and)とか"しかし"(but)で始めるのは悪文である。そういう書き方をしてはいけない』とあるのをみて、われわれは愕然とする。いけないといわれることをさかんにやっているからだ。 英語の文章だけのことではない。日本語の文章でも、前後の文章を結びつげる論理的接続詞を乱用しないようにすると文章が良くなる。」
 (「文章を書く心」P.53,54外山滋比古著)

 一語が文を引き締めたり、緩めたり、ときには意味を通じなくさせたりもする。接続詞・副詞は、軽く見られるのか、あるいは逆に節目の意識があるのか、濫用の気味がある。「そして」「しかし」「だから」「すなわち」は、もっとも多く使われる。「すなわち」と置くことによって、書いている実感なり、手答えなりを味わっているのだろうか。
  (「文章の書き方」p.105,尾川正二著)

3. 不必要な代名詞を廃する。

 「そんなことを言うが、"私"や"ぼく"を使わないでは文章が書けないではないかと反論される可能性はある。なにも絶対にいけないと言おうとしているのではない。ぎりぎりの必要なときだけにしてほしいと思うだけである。そのつもりにならば、第一人称単数は、ラテン語と同じように、動詞のなかへかくすことができる。それが日本語のおもしろさか」(「日本の文章」p.14)

4. 聖句の節番にこだわらない、構造的翻訳。

 「まず逐語訳の問題がある。ヨーロッパ語と日本語と言語の性格が違うのだから、逐語訳といっても語順の入れ替えをしないと訳文にならない。
 ところが、構造の違いを考慮に入れるのはこのセンテンス内の語順の交換だけにとどまっている。これは翻訳の原理としてもたいへんおかしい。ただし、それをおかしいと思う人がほとんどいなかった。これはさらにおかしい。
 センテンスの内部で原文の語の順序はそのままにしておく、というのはどうしたことか」(「日本の文章」P.190)

 おそらく聖句の節番を変えることには心理的な抵抗を覚える人もいるだろうが、次の記述はこだわりを捨てるのに役立つかもしれない。

 ステファヌスの第四版(1551年)は二つのラテン語訳(ウルガタとエラスムスの訳)をギリシャ語本文の両側に配置しているが、注目すべきことに、この版ではじめて本文が節に区切られた。ステファヌスは「馬にのって」旅行している時に節区分を施したとか、馬の背がゆれて彼のベンがまちがったところにあたったため節の区切りに不適当なところがあるとか、言われている。ステファヌスの息子は、父がパリからリオンヘの旅行中に(inter equitandum)節区分をほどこしたことを認めているが、しかし、実際は道々、旅館で休んだ時にこの仕事にあたったものであろう。
 (「新約聖書の本文研究」P.119,B・M・メツガー著)

(3) 新世界訳は不要か

 今の新世界訳は完全な欠陥聖書である。通読用としては改訳しないかぎり、もはや必要性のない聖書であろうと思う。それではもう新世界訳は不要かというと、またそうとは断言できない面も残っている。まったくの誤訳は別としても、字義訳の欠陥とは裏を返せば字義訳の個性にもつながる。字義訳には字義訳でなければ味わえないような表現がある。分かりやすさよりもそういう異質の文化との出会いをもっと貴重にすべきだという次のような意見もある。

 ・・・・何ほどかでも新約書を知っている人が「ただ神により頼む人々は、幸いだ」という文に接したとして、これがマタイの山上の説教の冒頭の有名な句だと気がつくだろうか。どうして「心の貧しい者は幸いだ」と訳さないのか。いや「心」というのは厳密でないので「霊」とすべきだとか、そうには違いないが日本語で「霊」と言っては何だかはっきりしないから、「精神」とまでは言わぬまでも「魂」とでも訳そうか、というのなら、ありうる議論である。しかし、「霊」も「貧しさ」も消去して、その代わりに「ただ神により頼む」と訳してよい理由がどこにある。・・・・・。

 それに対して「共同訳」を支持する者は理屈をこねる。目本語では「貧しい心」とはもっぱら金銭や自分の利益しか求めない「さもしい心」しか意味しない、というのだ(たとえば1978年12月2日大阪朝日夕刊に「共同訳」のたいこもち記事を書いている三好迪)。だから日本人の読者に対しては「心の貧しい者は幸い」と言ったとて通じはしないので、「ただ神により頼む者」と訳さないといけない、というのである。しかしこれほど読者を馬鹿にした話しはない。

 今時の日本人で聖書の翻訳を読むくらいの人ならば、「心の貧しい者は幸い」という場合の「心の貧しさ」は決して「さもしい心」なんぞを意味するのではなく、もっと積極的な価値を意味している、という程度のことは知っていて読んでいる。日本近代にはすでにキリスト教と接触してきた百年の歴史があり、多くの人々が、たとえキリスト教徒でなくても、「心の貧しい者は幸い」という言葉に取り組みつづけてきた歴史がある。日本人の読者ならば、「心の貧しい者は幸い」という文に接した時に、「さもしいエゴイストが幸いである」などという意味に勘違いして受けとることはまずありえない。その程度には日本人の読者も聖書のことを知っているのである。
 (「宗教とは何か」P.77〜79田川建三著)

 マタイ5章3節の訳は「心の貧しいものは幸いである」にはなっていないが、異なった文化、異質の感性、特異な表現との出会いのおもしろさでいうなら、文句なしに新世界訳を推薦できる。こういうユニークな聖書は他に類例がないのではないだろうか。新世界訳のこの希少価値はもう少し高く評価してよいと思う。

 さらに、神の名に関する問題がある。新世界訳の最大の特徴は何と言ってもエホバというみ名を全面的に用いている点である。これは新世界訳を不要だと言い切ってしまえない最も重大な理由になっている。

 神の名については前にも触れたように見解が分かれているが、私たちは次の意見に賛成である。

 「神の名YHWHは、マソラ本文でアドーナイと呼んでいる箇所は、特製の太字『主』と訳出した」とのことであり、そのようにされている。YHWH(yahweh)は神の名であるから、神の名は神の名として打ち出したほうがよいと思う。マソラ学者は、ただ読みを忘れてしまったこの神名の聖四文字に母音符号をつけてアドーナイと読ませたり、エロヒムと読ませたりしただけのことであるから、何もことさらユダヤ人のまねをしてアドーナイ(主)と読む必要はない。いや、それより神の名を意訳するなど、愚の骨頂である。どんなものでも、ものの名というものは意訳などするものではない。このありかたりは、日本ではかなりリベラルな聖書協会口語訳か先鞭をつけており、不評を買ったものである。硬骨ファンダメンタリストがどうして軟弱リベラリストのまねをしたものか、了解にくるしむ。ちなみに、元訳には「エホバ」、左近訳には「ヤーエ」、半月訳には「ヤウエ」、渋谷訳には「ヤハエ」、関根訳には「ヤウ」、荻原訳には「ヤヴ」、フランシスコ会訳には「ヤーウ」中沢訳には関根訳と同じように「ヤウ」、と発音されている。YHWHはハーヤー動詞の第三人称、単数、未完了形における神の名であって、「私は在るという者」「私は在って在る者」ないしは「私は在ろうとして在ろうとする者」(出エジプト3:13,14)を意味する語であるから、「主」というような語でおきかえて平気でいられるものではあるまい。
(「聖書の和訳と文体論」p.314,315藤原藤男著)

 もっともであると思う。名前があるかぎりは使うべきであって、当事者に断りもなく消すべきではない。

 聖書から神の名を省いてしまうことは、小説であれば主人公の名を消してしまうことに相当する。カフカの「城」のような小説もあるが、たいていの小説は主人公の名前を省いて人、人間、男、女、などとしたらまず成り立たなくなってしまうであろう。

 引用文からも明らかなようにエホバを用いているのは文語訳くらいのものであって、口語訳では新世界訳の他はほとんどがヤーウェである。ヘプライ語の研究によれば、エホバは間違いであってヤーウェが正しいということになっているし、次のような証言もあるので

 「タルムードにも聖四文字の持つ聖なる力についての記述があり、聖四文字の正確な発音をめぐってさまざまな魔術・呪術・悪魔払いなどの通俗的カバリスト(瞑想と思索を主としたカバリストとは区別するための呼称)の活動が展開されたのである。これがつまり"聖四文字の秘儀"なるものの中心課題であった。それでは、YHWHの正確な発音はどのようなものであったのか。現代の研究者によれば決して紀元前3世紀以来忘れられていたのではなく、キリスト教初期の記述のうちに"ヤウ"(Yaweb)として記録ざれていることが指摘されている。さらに、YHは母音が付加されてYAHとして『出エジプト記」の詩のうちにも記述されていることが判明した。

 "主はわたしの力また歌、わたしの救いとなられた、彼こそわたしの神、わたしは彼をたたえる、彼はわたしの父の神、わたしは彼をあがめる"(出エジブト記15:2)−YAHU、−YAHは、ヘブライ語の名詞の語尾につくことが多い事実も判明した。また、YHWHは古代ヘブライ語における"ある"(to be)を意味するYHWHの動詞形であることが、多くの学者によって指摘されている。」
(「カバラ」P.99,100箱崎総一著)

 もうヤーウェに決定してもよいと言えるかもしれないが、ものみの塔協会に関する決着がつかないうちはまだ早い。

 それに名前を啓示したのは神自身であるという聖書の歴史的な背景を考えると、どの名前にするかは人間が勝手に決めるべきことではないと思う。神が自分で名前を定めるのが一番ふさわしいであろう。

 繰り返すが現在の世界の宗教事情では、エホバ−ものみの塔協会−新世界訳聖書というつながりになっている。その新世界訳はエホバの神性をおかしくするような聖書であり、ものみの塔協会にいたっては完全に神の神性を否定してしまっている。

 これを放置するようではもはやエホバではない。ものみの塔協会を裁いてこそ本物の神である。神聖な名前を汚されても何もできないようでは、エホバとは単なる名ばかりの存在、ものみの塔協会の教義上の存在に過ぎなくなってしまう。

 もしエホバが何もしたいようであれば、そのときはエホバという名を捨て去ってもよいのではないかと思う。ヤーウェが正しいというのであればヤーウェにすればよい。

 しかし、ものみの塔協会に天の裁きが下るならば、確かにエホバは自らの存在と神聖を証明したことになる。その時には、神の名をエホバに決定してもよいであろう。

 そういう意味では、今はキリスト教の歴史上、神の名を定められるという点でまたとない絶好の機会といえる。