Ⅳ.ものみの塔協会は神の組織ではない 3-2

「証拠3」 教義の誤り

(2). 神の組織とサタンの組織

「ものみの塔協会が主張していること」
「エホバの証人に指摘できる点」

「解説」

《ものみの塔協会の最大の武器》

「神の組織」に関する教えはものみの塔協会にとって最大の意義を持つ。「神の組織」というこの概念は、ほとんどあらゆる教理の土台になっているからである。預言の成就の決定、規則や戒律の設定などだいたいこの教理を規準として定められている。

またこれは、統治体を始めとするものみの塔の幹部には非常に都合のよい教理でもある。格好の言い訳や口実を与えてくれるのみならず、同時にそれがエホバの証人をものみの塔協会に引き止めておく最も強力な理由となっているからである。

「神の組織に敵対する者は皆サタンです。決して惑わされてはなりません。エホバは組織を確かに導いておられます。たとえ、組織に間違いや問題があってもやがてエホバが正してくださいます。あなたは組織の中にいてその時をじっと待つべきです。組織を疑うようになりサタンのワナに陥ってはなりません」というぐあいに用いるのである。神の組織、神の組織とあまりに強調されるので、すでに強迫観念になっている人もいる。組織の否認は神の否認、組織の是認は神の是認である。

この教理こそ、ものみの塔協会の最大の武器といえるものである。

《神の組織、サタンの組織とは》

「神の組織」の定義(サタンの組織の場合は「神」を「サタン」に変えればよい)

  1. 神によって定められた取り決め、または神が設けられた秩序
  2. 神の取り決めに従う人々の集合体、あるいはもの

ある組織を100パーセント神の組織、サタンの組織と断定するのであれば、その組織は100パーセント神の取り決めに従っているか、サタンの取り決めに従っているかでなければならない。

ところが現実には、はっきりそのように言い切れる組織などほとんどない。たいていの組織、人は、あるときは神であったりあるときはサタンであったり、またある部分は神であったりサタンであったりする。

ものみの塔協会の場合はサタン的なところを指摘されると、「人間は不完全だから」といってごまかしている。

《判定者は神》

神の組織かサタンの組織か、一体誰がそれを判定すべきであろうか。いうまでもなくそれは神御自身である。ものみの塔協会のように神の判定を待たずして人間が勝手に断定すべき問題ではない。

《ものみの塔協会は宗教法人》

神の組織の定義を当てはめると、ものみの塔協会は困ることになる。なぜならものみの塔協会は聖書の取り決めから出てきた組織ではなく、C・T・ラッセルがカエサルの律法に基づいて作った組織だからである。神が直接ものみの塔協会を作るようにと指示したわけもなく、そういう言葉が聖書に載っているわけでもない。

事実、協会の会長や副会長、会計秘書などの役員は、神権的な方法ではなく民主的な選挙で決められている。「ものみの塔協会を作るようにという神の取り決めは聖書のどこに記されていますか」と問われたら、おそらく返答に窮するであろう。

《神の組織が常に唯一であったとするものみの塔協会の根拠》

神は常に一つの組織しか用いられなかったのでしょうか。もちろんそうですとものみの塔協会は主張する。

その主張を整理すると以下のようになる。

  1. 神は無秩序の神ではなく秩序の神である。それゆえいくつもの組織を用いて人々を混乱させるのはその神性に合わない。
  2. 信仰は一つしかないのだから、組織も一つのはずである。
  3. ノア、アブラハム、イスラエル民族、1世紀のクリスチャン会衆、いずれも神が二つの組織を用いた時代はない。
  4. 神の天の組織は一つしかない。
  5. 目に見える天、すなわち宇宙は一つの取り決め、法則に従って運行している。
  6. キリストは忠実で思慮深い奴隷に「すべての財産を委ねる」のであって、分割して委託するのではない。

1.〜6.の項目は基本的には正しい。ただし、これらの根拠をもって神の組織が常に唯一であったとするのは、聖書の歴史と現実を忘れたあまりにも単純な見方である。

《神の組織は唯一ではなかった》

組織の最小単位は家族と考えることができる。そういう意味では地上に神の組織が一つしかなかったときがある。エデンの園の時代には神の設けた取り決め以外のものは何もなかった。

次に神の組織がはっきりしたのはノアの時代である。箱舟を作るようにとの神の定めに従ったのはノアの家族だけであって、他の人々はその取り決めに加わろうとはしなかった。やがて大洪水は「生き残った8人」対「滅ぼされた邪悪な人々」という形で、「神の組織」と「サタンの組織」を明確に区別するものとなった。

さらに、神が律法契約を通して組織された国民はイスラエル民族だけであったという点も指摘されよう。神がイスラエル以外の国民と契約を結んで、何らかの組織を作ったということはない。また、紀元1世紀ペンテコステの日にクリスチャン会衆が発足したとき、聖霊を注がれたのは12使徒を中心としてエルサレムに集まっていた人々だけであった。他にどこかで聖霊が注がれて、独自に別のクリスチャン会衆が組織されたというような記録は全くない。

こういう事例ばかり見せられると、ものみの塔協会の主張は正しいとエホバの証人は考えるだろうが、忘れてはならない。これらの例は聖書の歴史からいうと、ほとんど例外的なことなのである。多くの場合、神の組織とサタンの組織の明確な区別はつかない。

ものみの塔協会が主張するほど事実は決して単純ではない。これは一律に神、サタンと簡単に決められるようなテーマではない。この問題には神の組織の意味合い、取り決めのレベル、預言的な時節等の様々な要素が関わってくる。

出エジプトしたイスラエルの民はシナイ山でモーセを仲介者とし、神と律法契約を結んだ。その時以来、イスラエル国民は組織された神の民となった。それはキリストがやって来て律法契約を終了させるまで続いた。この間、神の組織は一つしかなかったのであろうか。

律法契約を結んでいる以上、それを破棄しない限りは確かに神の組織ということはできる。そういう意味では、つまり「契約上の意味合い」「法的な意味合い」においては、神の組織は一つしかなかった。しかし、神の組織にはもう一つの側面がある。すなわち「実質的」に神の取り決めに従っているかどうかという問題である。本当に神の取り決めに従っているのでなければ、法的意味と実質的な意味の双方において神の組織とは言えないのである。

法的な意味においては神の組織は一つ、しかし、実質的な意味においてはそうではないという状況は、イスラエルの歴史上普通のことであって決して珍しいことではない。むしろ、国民全体が背教してしまい、神の組織とは名目だけであって、実質的にはサタンの組織と言えるような場合が非常に多い。

典型的なのは、バビロニア帝国に滅ぼされてしまった時のイスラエルの状況である。この時イスラエルは法的には神の組織であった。形式的には、ソロモンの建てた神殿でエホバの崇拝を続けていたし、律法契約も依然として有効であった。しかし崇拝の実質においてはどうであったろうか。エレミヤ、エゼキエルなどの預言者たちの糾弾からわかるように、イスラエルはもはや神の組織とは言えないような状況にあった。行っていることは神の取り決めなどとはほど遠いサタン的な精神に満ちたものだったからである。

当時の状況についてエレミヤは次のように述べている。

「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、私の名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているのではないか。」(7:9,10)

神の組織とは表面的、神が律法契約を破棄していないというだけの法的意味、実質的にはむしろサタンの組織になっていたと言えるのである。

《実際には二つの神の組織》

イスラエルの最初の王となったのはサウルである。彼は当初は神に忠実な良い王であったが、やがて神の指示やその取り決めを無視するようになり、ついにはエホバに捨てられてしまう。

その後油注がれて王になるよう任命されたのはダビデであった。しかし彼はすぐに王位に就くことができたのではない。サウルにねたまれて命を付け狙われ、逃亡を余儀なくされる。そして荒野を何年間も放浪した後ようやく即位するのである。それでもただちに全イスラエルの王になったわけではなく、初めは二部族の王にすぎなかった。サウルの家とは七年余に及ぶ戦争があった。

ここで問題になるのは、サウルがおかしくなってからダビデの王権が完全に確立されるまでの期間についてである。この間、神の組織はいったいどうなっていたのであろうか。

もちろん、サウルもダビデもイスラエル国民に属し、共に律法下の体制にいたので、そういう大きな意味では組織は一つであったと言える。しかし、実際には二人はいつまでも同一の組織の中にいたのではない。やがてダビデはサウルのもとを離れ、二人はそれぞれ独自の組織を形成するようになった。

イスラエルの体制全体を掌握していたのは、サウルの方である。ダビデのもとに集まったのはごく少数の人々であった。サムエル記上22章2節はその時の様子について「困窮している者、負債のある者、不満を持つ者も皆彼のもとに集まり、ダビデは彼らの頭領になった。四百人ほどの者がかれの周りにいた。」(新共同訳)と記している。ダビデに付いたのは反主流派の人間ばかりであった。

ではダビデのもとに形成されつつあったこの組織は、どちらの組織になるのであろうか。一般的にはアビガイルの愚かな夫、ナバルの「ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった」(サムエル記上25:10)という受け止め方が普通であったと思われる。まさかサウルが「私はダビデをねたんで彼の命を狙いました。ダビデは仕方なく逃げ出したのです」と素直に真実を語るはずがない。当然「ダビデは逃亡者だ、主人を捨てて逃げたのだ、王位をねらうよからぬ輩だ」と宣伝したに違いない。サウルが実際どんなことを行ったのか、詳しい記録はないが、ナバルの言葉は当時の一般的な見方を反映したものであろう。

しかし、この間ダビデが神の是認を得ていたのは確かなことである。イスラエルの体制からは捨てられても神から見捨てられることはなかった。そういう意味ではダビデの組織はまさに神の組織であり、決してサタンの組織などではなかった。

ダビデの組織が実質的には神の是認を得た組織であったとすれば、サウルの組織の方はどういうことになるのであろうか。ものみの塔協会のいうように神の組織が一つしかないと仮定するなら、ダビデを認めればサウルの方は否定するしかない。もしそうだとすると、実質的にはサウルの組織はサタンの組織だったということになるが、そうすると今度は別の困った問題が生じてくる。

ダビデとヨナタンといえば、美しい友情の代名詞のようになっている。ものみの塔協会もヨナタンを高く評価し、千人に一人の人物、勇敢で、忠節で、利他的な人と述べている。(1980年2/15号)まさかこのようなヨナタンを、サタンの組織の一員ということなどとてもできないであろう。

ではヨナタンを神の組織の成員とすると、どういうことになるであろうか。現実にはヨナタンはダビデの組織の中にいたのではない。彼はサウルの子であり、その後継者としてサウルの組織を代表する人物であった。ヨナタンを神の組織の一員、彼が属する組織を神の組織とすると、サウルの組織も神の組織ということになり、現実には神の組織はダビデの組織と合わせて二つあったという結論になってしまう。

ところがサウルが不忠節になってからは、サウルの組織は神の取り決めに真っ向から反することを再三にわたって行うようになった。サムエルを脅かし、ダビデの命を付け狙い、祭司の町ノブの住民を虐殺している。こういう命令を発するほどサウルは悪霊的になっていたのである。聖書は、サウルが神の霊的裁きを受けて聖霊を取り去られると、すぐに悪霊の攻撃に悩まされるようになったと記している(サムエル記上16:14)。いうまでもなく、このような組織のトップの状態や行為は神の組織の業ではありえない。

このように考えてくると何とも妙なことになる。法的契約関係からいえば、神の組織は一つ、しかし現実には神の組織は二つに分かれて争い合っている。実質的には神の組織とサタンの組織が入り乱れているという複雑な状況になっているのである。

こうしたことは何もダビデの時代に限ったことではない。規模や関係の程度はそれぞれ異なっても、様々な時代に見られることである。アブラハムとロト、ヨセフの家とイスラエルの民、追い出されたエフタとイスラエルの家、イエス・キリストの伝道期間、小麦と毒麦の時代のキリスト教等々数多くの例を挙げることができる。

結局、神の組織は一つであるといっても、「一つ」の意味が問題になるのである。これは意味の意味を考えずに単純に論じられるようなテーマではない。「この世には神の組織とサタンの組織しかない。神の組織はただ一つ、あとは皆サタン」というものみの塔協会の教義は、現実とは遠く掛け離れたあまりにも単純で短絡的、一義的、御都合主義的な教義である。

《ものみの塔協会は神の組織かそれとも悪魔の組織か》

「聖書から論じる」(p. 297)は「今日のエホバの見える組織をどのように見分けることができますか」という見出しで、神の組織を見分ける七つの条件をあげている。

この条件をものみの塔協会に当てはめるとどうなるであろうか。

こうして見てみると、ものみの塔協会は誇大宣伝ならいざ知らず、厳密にはとうてい神の組織とは言い難い状況にあることがわかる。組織としてはだいたい神とサタンが半々くらい、幹部ほど偽善的でサタンに近くなる―これが現実的な評価であろうか。

《エホバの証人はものみの塔協会の中にいては危ない》

ものみの塔協会の最後の切り札、都合が悪くなった場合の最後の逃げ道は「やがてエホバが正して下さる、それを待てない人は不信仰だ」である。

どのように、いつ…それは誰にもわからない。すべてはエホバによることなのだから。神が定めの時に御意志にかなった方法で行って下さるはずであるということになる。具体的な保証は何もない。皆が忘れてくれればそのままうやむやにしてしまう。どうしても扱わなければならないものは、まず一生懸命理屈を考える。これで成員を納得させられる、あるいはごまかせるという有力なものが見付かると、ただちに「やはりエホバの組織です」という顔で堂々と行う。ちょっと弱いな、根拠薄弱だなというものは、記憶が薄れた頃にさらりと変更してしまう。

現実にはものみの塔協会の対応のパターンはこの程度なのだが、エホバの証人はエホバの名を出されるとどうにも弱い。組織の中にいると幹部のへ理屈に簡単に瞞されてしまう。

よく考えてみるとコラとダビデの場合は全く違うのである。この相違はモーセとサウルの違いに基づいている。二人とも神の組織、イスラエルの指導者であるという立場は同じであった。ところが決定的に異なっていたのは、サウルは霊的な裁きを受けてすでに神から否とされていたのに対し、モーセは神の義認を得ていたという点である。このゆえに、サウルに対するダビデの離反、反逆は必ずしも神に対する反逆にはならなかったが、モーセに対するコラの反逆は神に対する反逆を意味するものとなったのである。

モーセの場合は、何らかの過ちや間違いを犯しても、神の義認を得ていたので全体としては神が導いていることになった。その過ちや間違いは神の義認を失うほどのものではなかった。したがって、イスラエルの民は問題があっても神が正して下さることを期待して待っていればよかったのである。

しかし、サウルの場合は事情が大いに異なっていた。彼は神の義認を失っていたので、その過ちや間違いは致命傷になっていった。やがてエホバが正して下さるのではないかと待ち続けていたらどうなったであろうか。おそらくサウルの家と共に滅んでしまったに違いない。

組織と個人、何が神に対する忠節か、いずれの道が神への忠節になるのか、カギとなるのは神の義認である。エホバの霊的な裁き、聖霊の判決がどうなっているかがターニングポイントになる。

その組織が本当に神の義認を得ているなら、その中に留まって神が行動されるのを待てばよい。しかし、そうでなければすべての努力はやがて徒労に終わる。神がいやし不能とみなしたものは、誰もいやせないからである。

このままでゆけば間違いなくものみの塔協会はサウルになるであろう。彼らは一貫して真実に敵対しているからである。統治体を筆頭とする幹部に対する神の義認が取り去られたことは、今回の事件によって法的にも実質的にも立証された。エホバの天の法廷が実際に機能しているのであれば、神の霊的な判決の影響は間もなく明らかになるはずである。